春風かほる
ざっざっざっざっ  ざくざくざくざく

ざっざっざっざっ  ざくざくざくざく

ざっざっざ…    ざく…

「…おい」
「うん?」
「どこまでついてくる気だ」
「どこまでって…そりゃあたしが聞きたいよ」
「は?」
そう言ってようやく振り返った少年の顔は少し苛立っていたが、その顔を迎えた娘の方は小さくほほ笑んだ。
それを見た少年の方がまた一段と不機嫌そうな顔になる。
「用があるわけじゃないんだろ…弥勒が心配するぜ」
「今日は法事でいないの。だから大丈夫」
「そういう問題じゃねー」
「あたしのことは気にしないで。」
「ついて来られちゃ気になるんだよ!」
「たまにはいいじゃないか。井戸に行くんだろ?」
(分かってんのかよ…)
確かに三日に一度は通っているが、他人から指摘されると照れくさいものがある。
「ささ」
と言って先導し始めた珊瑚の笑顔に根負けした犬夜叉は、小さくため息をつきその背を追いかけた。
そして無言で彼女の背負っていた洗濯物の入った籠を取り上げたのだった。


「ここ来るの久々だな」
珊瑚は感慨深げに呟いた。
考えてみると最後にこの場所に来たのは、奈落を倒し井戸の向こうへ消えたかごめと犬夜叉の帰還を待っていたあの時以来かもしれない。
その後、弥勒と祝言を挙げ子を授かり忙しい日々の中、ここまで来る時間も余裕もなかった。
もちろん犬夜叉が足しげく通っていたことは知っていたが。
「何にも変わらないね。当たり前だけど」
「ああ。」
犬夜叉は短く返事をし、井戸を見つめている。
珊瑚も同じように井戸を見つめる。
こうして見つめていると、「ただいまー」と大きな荷物を抱えて井戸を登ってくるかごめの笑顔が鮮やかに思い出される。
もしかすると犬夜叉は、そうして一人でかごめの姿を繰り返し繰り返し思い出しているのかもしれない。
「…今でも笑ってるかな。」
ぽつりと珊瑚が呟いた。
かごめはどんなときも笑っていた。
もちろん怒ったり泣いたりしていることもあったが、脳裏に浮かぶのは自分たちを繋いでくれた笑顔だ。
「…でなきゃダメだ」
独り言に思いがけず返事があり、珊瑚は犬夜叉に目を向けた。
彼はなお井戸を見つめたまま続ける。
「笑っていなけりゃ…幸せでいてくれなけりゃ帰した意味がねぇ」
そう言った犬夜叉の肩は小さく震えていた。
珊瑚には想像も及ばぬ葛藤を、毎日毎日心の中でしているのだろう。
「ねぇ」
「…」
「中、入ってみてもいいかな」
「…は?」
「報告したいんだ、今の生活と…この子のこと」
そう言って珊瑚は大きく膨らんだ自らの腹を優しくなでた。
「…やめとけ。腹がつっかえるぞ。」
ぞんざいな言い方だが、彼なりに心配してくれているのだろう。
「犬夜叉なら、あまり衝撃を起こさず降りられるだろう?」
「俺も一緒なのかよ」
「当たり前じゃないか。流石にこの体で一人では無理。」
「無理なら降りなきゃいいだろ。」
「あんたがいるんだから無理じゃないだろ」
すかさず切り替えされる台詞に、犬夜叉がまたもや根負けした。
(弥勒おめぇも苦労すんな…)
などと考えながら、珊瑚をそっと両腕に抱きあげた。
そして珊瑚が己にしっかり掴まったことを確認すると、音もなくその井戸の中に降り立ったのである。

珊瑚がそこに降りたのは初めてだった。
骨喰いの井戸―
死んだ獣の骨などを捨てておくといずこかへ消えせしめるという妖しの井戸。
妙に広く静かな空間は黙っていると己も消えてしまいそうな感覚になる。
犬夜叉とかごめはここをずっと行き来していたのだ。
珊瑚はしゃがみこみ、そっと右手を地面に添えた。
「かごめちゃん…」
目を閉じると、すぐそばに彼女がいるような気がした。
「久しぶりだね。元気にやってる?勉強頑張ってるのかな。 あたし、今日は報告したいことがあって来たんだよ。」
柔らかく紡がれる珊瑚の声を、犬夜叉は黙って聞いている。
「まずね、法師様とはちゃんと夫婦になれたよ。今住んでいるのは、楓様の村。毎日があっという間に過ぎていくんだ。 それでね、見たら分かると思うけど、法師様の子を授かったんだ。もうすぐ生まれてくると思う。不安もあるけどとても楽しみ。あとは…」
そこで珊瑚はいったん言葉を切ると目を開けた。
「犬夜叉も元気でやってる。法師様と一緒に妖怪退治の仕事をしてるんだ。時々楓様のところやうちの家で一緒にご飯を食べたりしてね。 すごく…すごく一生懸命生きているよ。…かごめちゃんがいつ戻ってきてもいいように頑張ってる。だからね、たまにはさ…」
珊瑚は後ろで立ち尽くしている犬夜叉を振り返り微笑んだ。
「会いに来てやってよ。あたしからのお願い。」
「…さんごっ」
「うわぁ!」
何かに耐えられなくなった犬夜叉が珊瑚に思いっきり抱きついてきた。
その勢いに珊瑚は尻もちをついてしまった。
珊瑚の豊かな胸に顔をうずめ、腰に手を回し犬夜叉は嗚咽をこらえていた。
「犬夜叉…」
一瞬頬に赤みが差したが、震える肩を見てまるで大きな子どもを抱えたような気持ちになる。
「…好きなだけ泣いていいよ。」
珊瑚は優しく言うと、犬夜叉の頭をそっと撫でた。
「さんご…」
口では珊瑚と言っているが思い浮かべているのはかごめか、もしくは幼い時に別れたという母親なのだろう。
(かごめちゃん…あたしもっとたくさん話したいことがあるんだよ。
自分の家族ができて幸せなことたいへんなこと、いろんなことが毎日あるの。
かごめちゃんなら嬉しそうに聞いてくれるんだろうな…)
想像すると嬉しくなって、珊瑚は犬夜叉をそっと抱き返した。
「大丈夫。かごめちゃんはきっと戻ってくるよ」

ぼこ
しばらくそうして抱擁を交わしていたが、腹の子が思いっきり犬夜叉を蹴ったのが分かった。
「あ」
顔を上げた犬夜叉が珊瑚と目が合うと思わず笑ってしまった。
「父親じゃねえ男はどっか行けって言ってるのかもな」
「そんなまさか」
笑いながらようやく二人は離れる。
と、そこに。
「あたっ」
鈍い音が鳴ったと同時に犬夜叉の呻き声、そして最後に金属が擦れあう音が響いて辺りは静かになった。
「だ、大丈夫?」
頭を抑えてうずくまる犬夜叉を覗き込もうとし、そこに落ちていた凶器を見た珊瑚の顔から血の気が引いた。
その金属音の正体は錫杖の六輪―見慣れた夫の所有物だ。
「何すんでぃ弥勒っ!」
「それは、私のセリフですが。」
涙目で井戸のふちを見上げた犬夜叉は、地の底から響くような弥勒の声を聞き、一瞬押し黙る。
逆光になり顔はよく見えないが、声だけで十分わかる。彼はとても怒っている。
言い訳しようにも、ここからだとまず声を張り上げなければならないし、そもそも位置的にとても不利な気がする。
「と、とにかく今そちらへ行くから早まらないでくれ!」
犬夜叉は意を決して叫ぶと不安そうに見つめてくる珊瑚を抱えた。
身重の珊瑚に負担がかからぬよう静かに着地すると、恐る恐る弥勒を振り返った。
「…」
「これは、違うぞ…変な勘違いすんなよ?」
なるべく刺激せぬように慎重に言葉を選ぶ。
「…で、人の嫁をこんな暗くて狭い場所に連れ込んで何をしてたんです?」
「いや、ちょっと、あれだ。相談があって…」
確かに井戸に入りたいと言ったのは珊瑚だが、抱きついたのは自分だ。
流石の犬夜叉も少しまずかったという自覚があるらしい。
焦って言葉がうまく出ない。
「あ」
後ろで様子を見ていた珊瑚が小さく声を上げた。
「ど、どうした?」
犬夜叉の問いには答えず、珊瑚は彼の横を通り過ぎ、弥勒の前に立った。
そして夫の厳しい視線も全く気にかけず、「おかえりなさい」と言って突然抱きついた。
「?」
思わず弥勒も驚きに目を開く。
ぼこぼこぼこ―
またもや腹の子がお腹を蹴ったようだ。
しかも今回はかなり激しい。
「やっぱり」
「え?」
「この子、法師様におかえりって言ってるんだよ。きっとさっきも法師様が近くに来たのが分かってお腹を蹴ったんだよ。父上が帰って来て嬉しいんだね。」
はにかんだ笑顔で自分のお腹を優しく撫でる珊瑚を見ていると弥勒の毒気もすっかり抜けたようだ。
「ただいま」
苦笑した弥勒が柔らかく妻と子を抱きしめた。

「それで?井戸の中で何をしていたんです?」
帰りの道すがら、呆れたような声で弥勒が二人に尋ねた。
「…」
しかし犬夜叉は難しい顔をして黙ってしまった。
「…ちょっと気分転換したくなってさ。あたしが強引に犬夜叉についていったんだよ。」
「それで何故あんなところで、あんな体勢になるんですか」
「それは…ね」
黙り込んだ犬夜叉を見て、困ったような顔を向けられた弥勒は、なんとなく事情を察したのだろう、小さくため息をついて不承不承ながらも納得してくれたようだ。
「女が恋しいからって人の嫁にちょっかい出さんでくれ」
「な、そんなんじゃねぇ!」
その台詞に犬夜叉が我に返った。
「罰として、洗濯物を干しときなさい」
思わず持たされていた洗濯かごを覗き込む。
「…心配しなくても帰ってきますよ」
げんなりとしていると、こちらを振り向かないまま優しい声をかけられた。
先ほども同じことを言われたな、と思い犬夜叉は苦笑いを浮かべる。
「おう」
生暖かい風が吹いた。
あれから一年―もうすぐ春が来る。






あとがき
いつも同じパターンですみません。
こういうパターンがとても好きでさあ!

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