Sweet Summer Cinderella
〜Woman's heart is as fickle as autumn foliage〜


珊瑚は先ほどから何度もため息をついていた。
彼女のため息は、単身バカンスへ行った後から続いているのだが、最近はその吐息に含まれる色に変化が生じている。
その変化に周囲はおろか、本人でさえ気づいてはいないが。

ここは某都市某所、ファッション部門を始め、数部門を有するそこそこ歴史のあるメーカーである。
そこで企画兼営業として働く珊瑚は自分のデスクで業績グラフを作成しつつ、時折スマホの画面を見つめてしまう。
「珊瑚」
背後から突然声を掛けられ、驚きのあまり大きく肩を震わせた珊瑚は、慌ててスマホの画面を閉じて振り向く。
「…今、がっかりした?」
「まさか!そんなことありません!」
とっさに否定した珊瑚だが、実はその通りですと言えるはずもない。
そういえば目の前の人物は、最近自分を呼び捨てで呼ぶな、と思い、ちょっとの違和感を覚える。
「最近ぼーっとしてること多くないか?」
「え、あ、すみません…」
そのことに自覚があった珊瑚は素直に謝った。
「あいつ、気になるんだろう。お前がぼーっとしだしたの、あいつが来てからだもんな。知り合い?」
あいつ、と言ってその男が目線を向けた先にいるのは今後提携予定の新進気鋭のデザイン企業から出向してきた人物。
彼が配属されているファッション部と、珊瑚の所属するスポーツ部は、同じ部屋にあった。
小さなメーカーなので各部門の人数はそんなに多くない。
ゆえに違う部門といえども、姿が見えれば声も聞こえる。
「そんなんじゃありません。まあ、ちょっとした知り合いですが」
そう言ってうつむいた珊瑚の頬はほんのり赤い。
それを見た男は少しつまらなげにつぶやいた。
「何だか妬ける。」
「な、なに言って…」
その台詞に驚いて、男の顔を凝視するように見上げる。
新婚のくせに、何を言っているのだ。
自分の淡い恋心を完膚なきまでに叩きのめしておいて、いまさら何を。
先輩の整った不機嫌な顔を見て、女子社員の人気が一気によその男にとられたのが面白くないのだろうと思い直した。
「冗談はよしてください。さ、仕事仕事」
可愛い奥さんがいるくせに馬鹿らし…と珊瑚は乾いた笑みを浮かべ、パソコンに向き直った。


昼休み、珊瑚は社員食堂でひとりうどんをすすっていた。
急な案件が入り対応していたため、昼休憩が遅くなってしまった。
周りに人はほとんどいない。
「あの先輩とは、うまくいかなくてよかったですね」
突然現れた人物に、珊瑚は驚きむせてしまう。
ハンカチを差し出しながら、男はにこりと微笑んだ。
「やっとゆっくり話せそうですね。」
「…チーフ。」
他社からの出向ではあるが、実質現在のファッション部門を取り仕切り次のプロジェクトリーダーを務めている彼―弥勒のことを皆そう呼ぶようになっていた。
「よそよそしいですなあ。あんなに情熱的な日々を過ごしたのに。あれはひと夏だけのことだったんです?」
「もう!ふざけたことを言わないで!…ください。ここは職場なんだから。」
「では職場でなければ普通に話を聞いてくれるか?」
「え、それは…」
真剣に見つめられ、バカンス中の思い出がよみがえり、その胸の高鳴りもよみがえる。
「やっと時間がとれそうなんだ。今夜、食事でもどうですか?」
彼が配属されて数週間。
待てど暮らせど彼からのモーションはなく、かといってファッション部の忙しさを見ていると自分から話しかけるのも躊躇われ、ただその姿を見つめるだけの日々を過ごしていた。
ほったらかしだったくせに、となじりたい気持ちがないでもないが、嬉しさの方が何倍も大きい。
じわりと頬を染め、コクリと頷いた彼女はそのまま照れ隠しにうどんをすすりだした。
「では…」
「チーフ!」
珊瑚の様子を微笑まし気に見つめていた弥勒だが、会議の時間が迫っているようだ。
チラリと上目遣いで向けてきた彼女の視線にウインクを返すとそのまま立ち去ってしまった。
こともなげにウインクなぞして許されるのも海外生活が長く、洗練された容貌の彼の特権なのだろうと、珊瑚は苦笑した。


終業時刻。
珊瑚はほんの少し残業をして待ってみたが一向に隣の部署の人たちが帰る様子がなく、諦めて退社準備を始めた。
帰り際、弥勒のほうをそっと窺うも、スタッフたちと熱心に論議を交わしておりこちらに気付く気配もない。
ファッション部という部門柄女性社員も多く、綺麗どころに囲まれているのを見ているのも面白くない。
会社のエントランスで待っていようかとも思ったが他の社員に気付かれて詮索されるのも気恥ずかしい。
(連絡先、聞いておけばよかったな)
仕事が長引くのかもしれない。
今日は無理なのかも。
でも、やっと時間が取れたと言っていた。
今日を逃すとまたしばらく機会はないかもしれない。
珊瑚は悩んだ末に、会社を後にした。


(思ったより遅くなってしまった)
スマホの画面で、定時より2時間も過ぎた時間を確認し、弥勒は慌てて会社を出た。
エントランスに彼女の姿はなかった。
近くで時間をつぶすとしたら通りの向こうのカフェかコンビニだろうか。
だが探してみるもカフェにもコンビニにも姿はない。
(連絡先を聞いておくんだった…)
らしからぬ失態に心の中で舌打ちをした。
もう帰ってしまったのだろうか。
がっかりしたように社員専用駐車場に向かい、ポケットに入れていた車のキーのボタンを押す。
と、開錠の音とともについたテールランプが人影を写した。
弥勒は驚いて駆け寄った。
「珊瑚!」
そこにうずくまっていたのは間違いなく今宵誘った娘だ。
ようやく秋めいた気配を見せてきたとはいえ、まだまだ残暑の季節だ。
確か珊瑚が出て行ったのは定時から少し過ぎたころだったからその時間からここにいたとすると、相当アスファルトなどの熱に当てられていたのではないか。
顔をあげた珊瑚に心配げな表情を向けると、不服そうに思いっきり睨まれた。
「遅くなって、すみません。…待っててくれたんですね。」
無言で立ち上がった珊瑚だが、急に立ち上がったせいか暑さのせいか少しふらついてしまった。
慌てて肩を支えた弥勒の手を払いのけ、また睨みつける。
その睨み顔も可愛いな、と思ってしまい、曖昧にほほ笑みながら弥勒は告げた。
「遅くなりましたが付き合ってくれますか?」
珊瑚が渋々頷いたのを確認すると、助手席に回って扉を開いた。


「私の車、知ってたんですか?」
助手席の扉に身を寄せ小さくなっている珊瑚を見て、あの時と同じだと苦笑しながら会話の糸口を探す。
「…こんな小さな会社で左ハンドルの車に乗っている人はいませんから。」
「ああ、なるほど」
あの時乗せられたながーいボディのいかにも超高級車というわけではないが、今乗せられているこれだって十分値が張るはずだ。
そんな目立つものに乗っておいて「ああ、なるほど」じゃないって、まったく。
と珊瑚はますます仏頂面になるが弥勒は気にした様子はない。
「…自分で運転するんだ。」
「ああ、運転手はいませんよ。日本には一人で来ましたから。単身赴任みたいなものかな。」
「メイドさんたちは?」
「さぁ?好き勝手やってるんじゃないですか。」
「金持ちの考えることはさっぱり分かんない。」
「そうですか?」
楽しげに話す運転席の弥勒を、ルームミラー越しに睨むも妖艶に笑い返されてしまい慌てて目をそらした。
何だか思っていたのと違う。
あの夢のようなバカンスから、スマホの画面を見つめていた時のふわふわした気持ちと今のこの苛立ちは大幅に食い違っている。
そして珊瑚はどうして自分がこうも苛ついているのか理解できていない。
「さ、つきましたよ」
ぽつぽつと会話をしながら数十分車を走らせ、たどり着いたのはいかにも高級そうなホテル。
その地下駐車場に吸い込まれるように車を滑らせて駐車した。
乗った時と同じように、助手席に回り込んだ弥勒が扉を開け、降りる珊瑚をエスコートしてくれる。
駐車場からエレベーターに乗り、ものすごく高層階のレストランに着いた。
「…ここ?」
そう呟き自分の姿を見下ろした珊瑚が不安そうに眉をひそめる。
まさかこんな高級ホテルで食事になると思っていなかった珊瑚は、カジュアルな服を着て、ポニーテールのラフな出勤スタイルだ。
弥勒が着任してから持ち歩くようになったコーラルピンクの口紅だけは車に乗る前に塗りなおしていたが、薄化粧である。
そんな珊瑚の不安に気づいた弥勒が「個室ですから気楽にしてくださいね」と告げて、店の前で珊瑚を待たせたまま入店した。
わずかもしないうちに、どう見ても支配人クラスのスタッフと一緒に出てきた弥勒が珊瑚に声をかけると、そのスタッフが黙礼する。
彼についていき、店に入ることなく薄暗い廊下を行くととある一室にたどり着いた。
周りに人けはない。
著名人なんかがお忍びで使うような、所謂VIPルームではなかろうか。
珊瑚が不信そうに息を詰めていると、いつの間にか支配人は消えており、弥勒に入室を勧められた。
弥勒が開けてくれた扉からそっと部屋に入ると、珊瑚は思わず感嘆の声をあげてしまった。
「すご…綺麗…」
そこは一面ガラス張りで、湾と面したホテルの高層階から見える夜景は絶景だった。
本日は雲一つない快晴。
都心から少し離れたこの場所は、山中というわけではないが星空が眩かった。
「本当はもっとはやく上がれる予定だったから、夕焼けの景色を見てほしかったんだが。ここは本当にサンセットが美しいんです。」
少し悔しそうに言いながら椅子を引き、座らせてくれる。
心遣いや、完璧なエスコートに胸が弾むものも、今の台詞に引っ掛かりを覚え途端喜色に満ちていた気持ちがしぼんでしまう。
「…誰かと来たことあるの?」
「え?」
「…何でもありません。」
「女性を連れてくるのは初めてですよ」
そんな胡散臭い顔で言われても信じられないし、それが嘘だとして自分に責める権利などない。
先ほどまで感動の面持ちがまた仏頂面に戻ってしまい、弥勒は残念そうに苦笑いを浮かべた。
「遅くなってしまいすみません。早速食事にしよう。」
にこやかに告げると、タイミングよく扉がノックされた。


一流ホテルの高級レストランのフルコースは流石というべきか、どの料理も絶品だった。
心なしか珊瑚の好物の食材やレシピが多い気がする。
怪訝な表情を浮かべていると向かいに座る男がにっこりと微笑む。
「お前の好みは、旅行の際にリサーチしたつもりです。」
途端、珊瑚の心臓が跳ねた。
また、考えを読まれたという恥ずかしさと。
バカンスのときから自分のオーダーなどを細かく見ていたことも、それを覚えていて好みにあわせて食事に誘ってくれたことも嬉しい。
だがそれは、こういうことに慣れた男である証拠のような気もするので複雑だが、それよりも。
(「お前」って言われた…)
他の男性に言われたなら、見下されたようで腹が立ったかもしれない。
しかし彼にそう呼ばれると、彼の所有物として扱われたような気がして、途轍もない羞恥心に襲われた。
(考えすぎ!)
珊瑚は慌てて首を横に振ると、目の前の料理をかきこんだ。
現金なものでその料理の美味しさと、彼の柔らかな微笑や話術に、不機嫌だった珊瑚はすっかりご機嫌になり、いつの間にか笑顔を浮かべていた。
「あの、ずっと聞きたかったんですけど。」
1杯だけ飲んだ食前酒が効いてきたのか、頬をほんのり赤く染めながら珊瑚が切り出した。
「あの旅行の別れ際。『ではまた』って言ったでしょう?うちの会社に来る、って決まってたんですか?」
「ああ。まあ、そんなところです。」
曖昧な回答に珊瑚は途端にむっとなる。
真面目に答える気なんてないのだ。
あの教会でのパーティーだって、何だかよくわからないまま連れまわされて、本当に自分が必要だったのかも不明なままだ。
一方弥勒は、彼女の機嫌を少し損ねたことに気が付いてはいるが、本当のことを告げる気は微塵もない。
(珊瑚がいるから、あの会社を次の標的にしたなんて知ったらお前はどんな顔をするだろうな)
汚い政財界の裏側など、そこに染まり切った自分の本性など見せたくはないし知ってほしくない。
裏の思惑などその端整な表情に包み隠し、豪勢なブイヤベースを飲み干した。
「それより、あの男のことです。」
「…だれ?」
睨みつけるも、続く言葉にのどが詰まる。
「お前の好きだった先輩のことです。」
「!」
「最近やけに絡んできているでしょう。やけぼっくいですか?」
他意などなさそうな穏やかな顔で尋ねられる。
「やけぼっくいも何も、別に付き合ってたわけじゃないし!」
「付き合ってなくてもお前は好きだったんでしょう?傷心旅行に来るくらいには。」
「うっ…」
そこを突かれると辛い。
それを言ってくるのが、今どうしようもなく気にっている男だというのだからなおさらだ。
「…別に絡まれてはいません。確かに今日、ちょっといじられましたけど、それだけです。」
弥勒は少し驚いたように目を見開いた。
弥勒はあの男が、珊瑚にしょっちゅうちょっかいを出しているのを見ている。
確かに珊瑚の返事はそっけなかったり、自分に話しかけられていると分かっていないのか無視していることもある。
(気づいていないのか…?)
よほど鈍感なのか、他に心を占めていることがあるのか。
「たぶん、チーフが女の子の人気もってちゃったから気に食わないんですよ。」
弥勒の返事がなく、沈黙に少し焦った珊瑚が早口で告げる。
「はぁ」
気のない返事にまたも珊瑚がむっとしてしまう。
「もうっ!いろんな女の子の気を惹いといて何なんですかその反応!」
「珊瑚も惹かれてます?」
「〜〜〜!そんなことない!」
「やきもちですか?」
嬉しいですな〜と笑う弥勒に怒りと羞恥でますます顔が真っ赤になる。
折よく最後のデザートが配膳され、珊瑚は無言で頬張ったあと、ご馳走さまでした!といってナプキンを投げ捨て走り去ってしまった。
「あ、ちょっと待ちなさい!」
流石の弥勒も慌てて後を追う。
だが、久しぶりの帰国で久しぶりの来店だ。
つけというわけにもいかず、支配人への挨拶と支払いをきっちり済ませている間に無情にも時間が経ってしまった。
ベイサイドのホテルは駅から距離があり、車でなければ路線バスかホテルから出るシャトルバスしか交通手段がない。
もう22時に近い。
この時刻から駅方面行のバスは出ていないので、足がない珊瑚は諦めて戻ってくるだろうと思っていた。
だが駐車場にその姿はない。
慌ててスマホを見るも、いまだ連絡先を聞いていないことを思い出し愕然とした。
デジャヴだ。
数時間前に後悔したのにまだ聞けていないなんて何をやっているんだ…。
よろける足を叱咤し、車に乗り込む。
ロビーに回り込み、レストランやホテルで連れの娘を見かけたらすぐに連絡してほしいと告げ、再び乗車した。
歩いて駅に向かったのかもしれない。
スマホの地図アプリを開き確認すると、40分以上かかるが歩けない距離ではない。
そして経路を表示させる。
「おや?この道は…?」
歩行者のルートは車道とは違う道だが、思い当たった弥勒はすぐさま車を走らせた。


「んもう!何でこんな目に!」
珊瑚は半泣きで砂浜を裸足で歩いていた。
怒ったまま半ばやけくそでホテルを出てきてしまったが、頭が冷えてくると次々と後悔に襲われた。
いくらほろ酔いだったからと言って、いくら図星を指されたからと言って、こんな刻限に見知らぬ土地で一人で逃げ出すのはどうかしている。
「駅からこんな遠いとは思わなかった。」
ホテルから駅までおよそ一本道だし、1時間もかからない距離なら終電にも間に合うだろうと思っていた。
その指し示す道が砂浜だったのは誤算だった。
近夏履き尽くしたお気に入りのミュールサンダルが、砂利に食い込みすぐに音を上げて紐が切れたのも想定外。
壊れたのは片足だけだったが両足とも脱いでしまい、優しい波の音に耳を傾け、自分を鼓舞しながらそろそろと歩く。
(だって…)
自分が彼に惹かれているなんて百も承知だ。
それを本人に、全く気にもしていない様子で指摘されたのが悲しくって悔しくって居たたまれなかった。
「あたしって、向いてないのかな、恋愛とか。」
じんわり滲んできた涙を決してこぼすまいと慌てて顔を上げると、向こうから誰かが手を振って走ってくる。
「えっ」
その人物はあっという間に目の前に来て、珊瑚を柔らかく抱きしめた。
「さんご!心配しました!」
腕の中で硬直した娘の様子に、思わず抱きしめてしまった体を慌てて離した。
「ああ、すみません。つい」
「なんでここが…」
「もうバスもないし、付近で見当たらなかったから、歩いているんじゃないかと思って」
まったく怒った様子もなく、柔らかい表情を浮かべる弥勒に対して自分の狭量さに、ただただ項垂れるしかない。
「ごめんなさい…」
「何で謝るんですか…それに何故裸足?」
「それは…」
恥ずかしそうに後ろ手に隠そうとしているサンダルの紐が切れているのが見え、事情を察した弥勒が小さくため息をついた。
「そんな足で駅まで歩こうとしていたのか…」
「それは…平気だもん」
「可愛く言ったって駄目なものは駄目です。では、前・後ろ・肩。どれがいいですか?」
「は?何が?」
「砂浜に入れる入り口が遠くて、車、結構遠いので。抱いていってあげますよ。」
さあ、と手を広げる弥勒の笑顔に顔が引きつる。
「結構です!」
「遠慮せずに。」
「やだって!…重いから!」
「そんなことないでしょう。ならばおんぶ…」
と背を向けようとする弥勒を押しとどめる。
「ほんっとーに大丈夫!」
本気で嫌がる様子に弥勒も諦めて、サンダルとバッグを取り上げると、空いた手を差し出した。
「では転ばないように、手を繋ぐぐらいいいでしょう?」
「え、転んだりしな…」
なおも躊躇する珊瑚の手を強引に取り、歩を進める。
流石に心配させただろうかと素直に従った。
「あの…ごめんなさい。」
「謝罪は不要だと言ったでしょう」
「あ、あと私お金も払わず、出てきてしまって…」
「それも結構ですよ」
「でも…」
「代わりにまた、食事に付き合ってください」
「…っ」
しばらく無言で歩く二人。
浜風も沈黙も心地よい。
少し前を歩き、手を引っ張るように進む弥勒の横顔は凪いでいる。
高そうな革靴がジャリジャリ砂浜を踏みしめている音を聞き申し訳なくなった。
ほどなく弥勒の車にたどり着き、来た時と同様助手席の扉を開けてくれる。
「あ、足が砂だらけだから…」
と弥勒が持つ己のカバンからハンカチを出そうと手を伸ばすが、「気にしないでください」と無理やり席に押し込まれた。
戸惑う珊瑚の瞳も笑顔でいなし、弥勒が運転席に座ったとき、彼の携帯電話が鳴った。



目覚めた珊瑚は、視界に飛び込む世界の白さをまず怪訝に思った。
次いで、ふかふかすぎるベッドに違和感を覚える。
夢か現実か理解が追い付かず、身じろぎをしていると、背後から声がかかった。
「おはよう、珊瑚。起きましたか?」
その声に瞬時に覚醒した珊瑚は飛び起きた。
「ええ!?」
振り返った先には案の定、彼がコーヒーカップ片手にシャツとスラックスという姿でたたずんでいる。
大きくはだけた胸元から慌てて目をそらし、バスローブ1枚の己の胸元も軽くはだけていることに気付き、かきあわせる。
「コーヒーが入りましたよ。どうです?」
いやいやいや。何をそんな冷静に。
ぎちぎちと音が鳴りそうなほど不自然な動きでもう一度彼に視線を這わすとにっこりと笑まれる。
「えーと、これってどういう…」
「ああ、残念だがお前の心配するような事態にはなっていませんから、ご安心を。」
「この状態もじゅうぶん心配なんだけど。」
「まあ、説明はあとです。そろそろ来るかな。」
弥勒が何気なく扉のほうを振り返ると、カランコロンとレトロなベルの音が鳴る。
やってきたのはバトラーで、朝食を運んできたようだ。
弥勒が部屋を出ていき対応している。
ベッドルームで縮こまっていた珊瑚はとにかく着替えをと、見回すが自分の服がない。
弥勒に呼ばれて仕方なくバスローブのままリビングへ足を向ける。
「急いで用意させました。間に合ってよかった。」
そう言って示された先にあったのは、昨夜ダメにしてしまったミュールによく似たサンダルだった。
「え、これって…」
「履いてみて下さい。」
弥勒に手伝われ(一人で履けるといっても聞いてくれなかった)、履いてみる。
その可憐なデザインは、珊瑚の程よく筋肉のついた白いふくらはぎを際立たせた。
よく見ると同系色でひまわりのモチーフが刺繍されている。
「やはりお前には大輪のひまわりが似合うな。」
以前もそうやって、ひまわりのコサージュを用意された。
かなり気に入っているらしいことに頬が熱くなる。
「でも…これ高いんじゃ…」
「うちの会社のものですから、遠慮なく履いてください。品質は保証しますよ」
「何でこんなこと」
「はい、あとこれ。」
珊瑚の当惑の声を流し、小さな箱を手渡す。
開けてみると上品な下着が出てきた。
「服はクローゼットにかけてますから着替えてきなさい」
「な…!」
「それはうちの取り扱いではないが…私の好みだな」
最後の台詞を耳元で囁かれ、久しぶりに珊瑚の平手打ちが炸裂した。


珊瑚は会社のエントランスの前で足踏みしていた。
ホテルでバタついてしまい自宅に寄る時間がなかった。
よって衣服が昨日と同じだ。
多少遅刻してもいいかと思ったが、今日は朝から会議があるためそうもいかなかった。
普段から薄化粧なので、高級ホテルのアメニティとマスクで顔面の体裁は整っているが、服が同じなのはいろいろと問題ではなかろうか。
とはいえいつまでもこんなところに居られない。
下着じゃなくて服を用意してほしかった…とは口が裂けても言えないが。
カーディガンを鞄に突っ込み、「風邪気味で服を用意できなかった」で通そう、と決めてようやく会社に入った。


「疲れた…」
疲労困憊という態で、本日も遅めのランチをとる。
無事会議を乗り越え、昨日と同じ服を着ていることは誰にも咎められずにここまで来た。
もうあと数時間息をひそめ、定時ダッシュで帰ろうと思っていたのに…
「今日も遅いな」
声をかけてきたのは例の先輩だった。
「あ、はは。タイミング逃しちゃって」
内心早く去ってくれと祈りを送っているが届くはずもない。
「ところで今日、時間ある?」
「え、えーっと。今日、ですか?何かあるんですか?」
誘われているんだろうか。
以前の自分だったら舞い上がっていただろうが、今はもう、とにかく今日は早く帰りたいとしか思えない。
「久々に飲みに行かない?」
「他に誰か、誘ってるんですか?」
「2人だけ。イヤ?」
「イヤ、というか…」
帰りたい云々の前に、既婚者が異性と2人きりでお酒を飲むのってどうなんだろう。
いくら会社の同僚で他意がないにせよ、世間体としては許されるのだろうか。
「…奥さんがイヤなんじゃないかなーと」
「…そんなことはない。それともやっぱりあいつと付き合ってる?」
「そんなんじゃありません!」
「でも今朝一緒に通勤してきただろう。」
「え…」
「車から降りてくるとこ見てたよ。」
珊瑚は口をパクパクさせていた。
頼み込んで会社の少し前でおろしてもらって、一緒に通勤したことがばれないようにしたのに、見られていたなんて!
「それに服、昨日と一緒だろう」
「いや、これは、その…」
考えていた言い訳もうまく言えずしどろもどろになってしまう。
「とりあえず今日付き合ってくれたら、みんなには黙っていてあげるから」
もう決定とばかりに笑うと、先輩は食堂を出て行った。
珊瑚は茫然とした。
柔らかい口調と笑みのほわりとした雰囲気の彼が好きだった。
あんな強引な物言いをする人だっただろうか。
自分の気持ちが変わったのか、結婚して彼が変わったのか分からない。
ただ途方もなく気持ちがざわついて、とは言え誰に相談もできず、そのあとの仕事を気落ちしたままこなすしかなかった。


仕事を終えると先輩からメッセージが入っていて、数駅先の居酒屋が指定されていた。
自宅と反対方面で面倒だな、と思いながら今朝のことを変に言いふらされても困るので仕方がなく赴く。
指定の居酒屋は表通りを外れた雰囲気のよい店だった。
その店の前ですでに私服の先輩が待っていた。
営業メインの彼は会社ではほとんどをスーツで過ごす。
「お待たせしました」
「いや、おれも今来たところ。」
「着替えたんですか?」
「1回家に帰ったんだ。飲むから車を置いてきた。」
そういえば、彼の新居はこの駅だったか。
それでここを指定したのかとその時珊瑚は深く考えずに納得した。
席に着き、ビールで乾杯をするとすぐさま先輩が質問してきた。
「で、何で今朝は一緒に?」
「…別にたいしたことはないんですよ?」
珊瑚は逃げようとするも、先輩は先を促すように無言で見つめてくる。
「うっ…誰にも言いませんか?」
約束する、と大きく頷いた。
食事に誘われ、サンセットの綺麗なベイサイドホテルのレストランに連れて行ってもらった。
彼の仕事が長引いたため、日没に間に合わなかったが、食事自体はつつがなく終了した。
「あの…それで、チーフが飲んでしまって。」
車で送っていくつもりだったがうっかり飲んでしまった。
電車で帰ろうにも駅まで歩ける距離ではなかったため、仕方がなくそのホテルに泊まった。
…ということにした。
「ふーん、同室?」
「ま、まさか!チーフはいい部屋にお泊りだったみたいですけど、あたしみたいな一介のOLは最低ランクの部屋しか泊まれませんから。それでもいいホテルなので結構いい値段で」
あはは、と挙動不審に笑う珊瑚の台詞に、一応は先輩も納得してくれたらしい。
珊瑚はほっとしながら、真実を思い返していた。

浜で彼に回収されたとき、珊瑚の捜索依頼をしていたらしいホテルから弥勒に確認の電話があった。
それを聞いた珊瑚はあまりの申し訳なさに、謝罪したいと申し出て一度ホテルに戻った。
ホテルやレストランスタッフ総出で周辺捜索にあたっていたらしく、自分のしでかしたことと、一流ホテルの対応に珊瑚は眩暈がした。
そうこうしている間に安心したスタッフがではこちらです、と彼らをホテルの一室に案内した。
謝罪文を書かされるのか、捜索費用を請求されるのか、混乱していた珊瑚は何も聞けぬまま彼と部屋に入ってしまった。
が、特に何も要求されることもなくベルボーイは頭を下げて出て行った。
「えーっと…」
閉じた扉を見つめていると弥勒の声が聞こえた。
「おや。ワインのサービスだ。」
そう言って赤ワインのボトルを手にしている。
指先がラベルの文字をなぞる。
「『Reconciliation』…仲直り、だそうだ。別に喧嘩をしたわけではないが」
「えっ」
「粋なことをする。」
私が逃げ出したのを見ていたホテルの人が、彼に怒って出て行ったと思って、仲直りに、とワインを用意してくれたということだろうか。
「まあ、せっかくだ。飲みませんか?」
にこっと笑ってグラスを差し出してきた。
彼がコルクを抜き、珊瑚が手にしていたグラスにワインを注ぐ。
その様子をじっと見つめ、顔を上げると、弥勒が促すように頷いた。
再びグラスに視線を移し、恐る恐る口をつける。
「…おいしい。」
目元を赤く染め小さく呟いた珊瑚の顔を優しく見つめる。
しばらく談笑しながら、ワインを楽しみ、あらかた飲み終わった後に弥勒はわざとらしく言った。
「あ、飲んでしまったな。これではお前を送れない。」
「あっ、えっ!?」
珊瑚は慌てて時計を見る。
もうだいぶ夜も更けている。
「仕方がない。お前もこの部屋に泊まっていくか?」
「どういうこと…」
意味が分からず泣きそうな顔を浮かべる。
「それに、帰ってほしくないな…」
ドキリと大きく心臓が音を立てた。
激しい動悸とアルコールのせいで思考がまとまらない。
頭が沸騰しそうだ。
隣に座っていた人物の顔が徐々に近づいてくる。
珊瑚は訳が分からずに、おもいっきり目を瞑った。
そして。
気づくと朝だった。
(何もなかった…と言われたけれど。)
朝シャワーを浴びて、自分の身に異常がないのは確認した。
確かに何もなかったのだろうと思う。
だが、バスローブに着替えていた。
化粧が落ちていた。
…部屋にはクイーンサイズとはいえ、ベッドがひとつしかなかった。
それだけで珊瑚には十分な衝撃だった。

「でもあいつのほうは、昨日と服が違ったように思うけど。家に行ったんじゃ…?」
(なんていう記憶力!)
回想中の珊瑚を引き戻した先輩の声に慌てて返事をした。
「後で聞いたんですけど、チーフは来日してからホテルを転々として暮らしてるらしく、昨日からちょうどそのホテルに滞在予定だったそうです。」
「…昨日から?それ、怪しくない?」
「え、どこが…?」
「だって、滞在するホテルに珊瑚を誘ったって…」
あまりピンと来ていない様子の珊瑚を見て、一応は信じることにしたようだ。
運ばれてきた食事を食べながら話は続く。
「で、あいつとはどういう関係なわけ?」
「えーっと…」
別に隠すことはない。
やましいことがあるわけではないのだ。
ただ、あの夏のことを誰かに言ってしまうと思い出が霧散してしまうような気がする。
あの眩しい思い出は二人だけのものにしておきいと思ってしまうのだ。
(でもチーフは誰かに話してるのかも…)
彼の出向初日に明らかに彼を知っている態度をとってしまったため、何人かに事情を聴かれた。
珊瑚は誤魔化したが、彼のほうも聞かれただろうし普通に答えていてもおかしくはない。
(そもそもチーフにとってはあんなこと日常茶飯事で、別に語るほどの思い出でもないのかも)
いつも女性社員を侍らせ、華やかなチーフ。
向こうでも次々と婚約者のような女がいたとメイドさんたちが言っていたし、今の私生活も分からない。
そう考えるとムカムカするやら落ち込むやら。
「…どうした?」
「いえ、先日旅行に行った先で、カメラを盗まれて。それを取り返すのを手伝ってくれたんです。」
「何それ?旅行先で偶然知り合った男が、偶然同じ会社に来たってこと?」
「まぁ、そんなところです。」
「そんな偶然あるか?やっぱり怪しいんじゃ…」
自分も聞いたが曖昧に流されて、先輩のことを聞かれた。
その先輩はチーフのことを聞いてくる。
「そんなに気になるなら、お互いで話し合えばいいじゃない…」
互いのことが気になるのではなく、それが珊瑚に絡んでくるから気になるということには本人は気づいていないらしい。


「この後、うち来ない?社員旅行の写真、渡したいから。」
お店を出て、駅のほうに向かおうとした珊瑚の背に声がかかった。
「ええと…奥さんにご迷惑では?」
「今日、居ないから大丈夫。」
奥さんの居ない新婚の家に上がり込むのはまずくないだろうか。
「写真なら、会社で受け取りますよ。」
「お前が心配なんだよ。」
人通りの邪魔になると、そのまま店の裏手に誘導される。
「あいつ、チーフ。絶対怪しいって。」
(だからって何故先輩の家に?)
「あの、そういうことでしたら大丈夫です。」
「前は俺に気があったくせに!」
「何で知っ…」
動揺した隙に手首を掴まれる。
「離してください!」
「もう少し話そうって言ってるだけだろう!」
チグハグな言動に怒りのボルテージが最大に達した珊瑚の何かがプチンと切れた。
「離せって言ってるだろ!!!」
「珊瑚!!」
珊瑚の鮮やかな背負い投げと、弥勒が駆け寄ってきたのは同時だった。
「どうしてここに…?」
珊瑚は弥勒を見つめ、目をぱちくりさせている。
「まったく、お前は…かっこいいところをいつも持っていくな」
小さくため息をつくと、痛みにもんどりを打つ先輩からかばうように珊瑚を己の背のほうに移動させる。
「どういうつもりですか。既婚者のくせに会社の部下を奥様不在の自宅に連れ込もうなどと…」
「あんたには関係ないだろう。」
痛みをこらえ、何とか起き上がった先輩は弥勒を睨みつけるが、涙目なので威厳も何もない。
「何が気に入らないのかは知らないが、珊瑚が自分に気が合ったのを知って、今になって落とそうとするなんて。最低だな。」
「知ったような口ききやがって…!ともかくあんたにとやかく言われる筋合いはない!」
(あんなに誠実そうに見えた先輩がこんな人だったなんて…)
好きだった男の不誠実な態度と、自分の見る目のなさに愕然としてしまう。
「筋合いならあります。」
弥勒の声音が変わった。
静かに怒りをたたえたような声に先輩も怯む。
「…自分の女に手出されて黙ってるわけないだろ。」
「!」
「いいか、私はそこの監視カメラの映像を入手する伝手を持っている。配偶者や社会に知らされたくなかったら、即刻この場を去り、二度と珊瑚にちょっかいをかけるな。」
底冷えするような声と言われた内容に、先輩は痛む身体に鞭打ってよろよろと立ち去った。


「大丈夫か?」
茫然としているところに声がかかった。
先ほど言われたことを思い出して、頬が赤らむ。
自然、顔を俯けてしまう。
「あの…何でここにいるんでしょうか…?」
「まぁ、いろいろと伝手があるんですよ。今日お前があの男に誘われていたのは知っていましたから。この辺に包囲網を張っていただけです。」
「包囲網…?」
「店員が知らせてくれたよ、言い合いになっているって。間に合ってよかった。」
店に入った時点で連絡が入っており、仕事が終わり次第すぐに向かっていたのだ。
「…何故、のこのこついていくんです。」
「何故って…」
今朝のことを言いふらすと脅されたからだが、言いよどんでいるとその沈黙を弥勒は、違う意味で捉えたようだ。
そっと頬に手を当てられ、顔をあげさせられた。
珊瑚の潤む瞳と、弥勒の切なげな視線が絡む。
「…まあ、私が来なくても、お前ひとりで撃退できたようだが。」
苦笑が浮かび、頬に当てられた手が離れようとしているのが分かり、とっさにその手を掴んだ。
「そんなことない!来てくれて…嬉しかった…です。」
その台詞に弥勒も優しく微笑むと、掴まれた手を器用に動かし、そのまま手を繋いだ。
「家まで送っていきます。」



海沿いの道路を、月の反射する海面を視界に入れながら車を走らせる弥勒は、別れ際の彼女のことを思い出していた。
『あの…本当にありがとうございました。あと、お礼を言い忘れてたけど、サンダルと…下着もありがとうございました。』
『ああ。いつかその下着付けてるとこ見せてくださいね。』
馬鹿!!と大声で罵声を浴びせてそのままマンションに入っていった彼女。
揺れるポニーテールが愛らしかった。
ホテルに戻ると、ロビーから電話があり外線が回ってきた。
「もしもし弥勒。元気かの。」
「…じじい。」
「相変わらず、口が悪いのう。」
「軽口はいい。用件はなんだ。」
「親父殿の帰国日が決まったそうじゃ。」
「…なに?」
「あんまりゆっくりしてられんぞ。」
「…」
「どうじゃ?日本まで追っていったシンデレラは。捕まえられそうか?」
「…用はそれだけか?切るぞ。」
「冷たいのう。せっかく忠告してやってるのに。」
「そっちは頼んだ。じゃあな。」
ガチャン
荒々しく電話を切ると、シャツのボタンをはずし、広いベッドに寝転がる。
昼間のうちにシーツは交換されているので昨夜ともに過ごした彼女の香りは残っていない。
(まあ一晩抱きしめていただけだが。)
別に焦るつもりはなかった。
百戦錬磨と言われた頃もあったが、彼女とは一夜限りでない、もっと長い付き合いをしたいと思ったのだ。
「急ぐつもりは、なかったんだが…」
ため息をつくと、目を閉じた。
珊瑚の潤む瞳が浮かんでは消え、なかなか寝付くことができなかった。








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