Sweet Summer Cinderella
〜ephemeral moonlit evening〜



(今日も遅くなった…)
海岸沿いの道、弥勒は一人寂しく逗留中のベイサイドのホテルへと車を走らせていた。
帰国し、業務提携と称して珊瑚の勤務先に潜り込んで、もうすぐ1か月。
現在己が拠点を置いている南東の国を、傷心旅行に訪れていた彼女。
出会いこそ偶然だったが、教会での夜会に同伴してもらい、一緒に旅行を楽しむうちに、彼女の純真さに惹かれ、優しさと強さを眩しく思った。
ちょうど父から今後の身の振り方について選択を迫られており、雁字搦めの身の上から抜け出すかのように彼女を追って帰国した。
もともと珊瑚に近づくのが目的で彼女の勤めるメーカーに潜入したが、自社とのコラボレーション企画は存外面白く、熱を入れてしまっている。
立場上、中心となって皆を引っ張らなければならず、結果、毎日遅くまで仕事に追われているのである。
(これじゃ、目的と手段が逆転しているぞ…)
彼女とは部署が違うが、同じ部屋で業務をしているので、ふとしたときに電話をする声が聞こえたり、ドリンクを片手に同僚と笑いあう姿が見えたりする。
今日も資料を手に持ち、会議室へ向かったピンと伸びた背を揺れる、ポニーテールが綺麗だと見入ったことを思い出し苦笑した。

高層のベイサイドホテルを間近にしたころ、弥勒は違和感を覚えた。
普段は静まり人通りのない時間だが、入り口に何台か車が停まっている。
それも外車だ。周りに数名の黒スーツの男たちがうろついている。
その中の一人、ひときわ体格のいい色黒の男に、弥勒は見覚えがあった。
(あれは親父の…!)
相手の視野に補足される寸前、弥勒は不自然にならないようにハンドルを返した。

来た道を戻り弥勒はため息をついた。
あの人物は父親の警護チームのリーダーだ。
いつも父の側で護衛をしている。見た目がいかついので、存在だけで警備になっている。
そんな彼がいたということは、もちろん父があのホテルにいるのであろう。
まさかたまたま弥勒の逗留しているホテルに宿泊しているわけではあるまい。
自分に会いに来たに違いないのだ。
そして、弥勒が追いかけてきた「シンデレラ」について言及したいのだろう。
(今はまだ…)
彼女と婚約などをしているわけではない。
それどころか、つきあっているわけでもない。
そもそも、彼女を好ましく思っているのは違いないが、彼女をどうしたいのか心が定まっているわけでもない。
(ここは…)
憂鬱な気持ちでドライブしていると、無意識に珊瑚のマンションの近くまで来てしまっていた。
こんな時間に押しかけるわけにもいかず自嘲気味に笑い、角を曲がると、街灯に照らされる長い髪の細身の女が視界に飛び込んできた。
弥勒は瞠目すると、ゆっくり女の横に並びウィンドウを開けた。
「珊瑚!」
「えっ…チーフ!?」
こんな夜に話しかけられたことに驚いた様子の珊瑚は、声をかけた人物を認識し、気まずそうに会釈した。
何せ彼女はラフな部屋着だ。そして片手に提げられたエコバッグは重そうで、随分買い込んだようである。
「こんな時間に買い物ですか?」
「…この時間に行くと、生鮮品とかが結構安くて…」
恥ずかしそうに目を伏せた顔はどうやらすっぴんのようだ。
随分無防備な場面に遭遇してしまったらしい。恥ずかしいだろうから、早く解放してやるのが優しさだ。
しかし。

グー

珊瑚の持つ食材を見たせいか、腹の虫が派手に鳴ってしまった。
仕事で頭と体を使い込んでいるのに、昼も碌に食べていない。
「…ご飯、まだなんですか?」
「はあ、まあ。」
力ない返事には、疲労が存分に滲んでいた。
「じゃあ早く帰ったほうがいいんじゃ。」
「…一度は帰ったんだが、戻ってきたんだ。」
「なんで?」
普段は見せない浮かない顔を晒され、珊瑚は心配げに眉を寄せた。
「…父が来ていて。」
「お父さん?」
「ちょっと会いたくないというか…」
いつになく弱ったような物言いが、珊瑚の母性本能をくすぐった。
そして、初めて彼のプライベートらしき話を聞けたことが心を躍らせた。
なので、普段なら絶対しない提案をしてしまった。
「…うち来ます?」
「えっ、いいんですか?」
想定以上に食いついてきた弥勒の反応に、珊瑚は後に引けなくなった。
「私の晩御飯の残り物でよかったらお出しできますよ。」
ぎこちなく笑った珊瑚の言葉に、弥勒は遠慮なく甘えることにした。

珊瑚の住むマンションの客用の駐車場に車を停めると、彼女の部屋へ向かう。
インターホンを押すと、先に部屋に入っていた珊瑚が扉を開けてくれた。
先ほどの部屋着の上にシンプルなデザインのエプロンを身に着け、髪を高い位置でひとつに束ねている。
温めなおしてくれているらしく、部屋に美味しそうなにおいが充満している。
「今日、カレーでよかった。」
「何故?」
「だって、誰が作っても失敗ないでしょ?」
照れ臭そうに言う珊瑚に促されリビングに足を踏み入れる。
「お前が作ったものなら何だっておいしいですよ。」
「食べたこともないのに適当なこと言わないでください。ハイ。」
荷物とジャケットを受け取りながら、手を洗うように言う珊瑚はまるで新妻のようで口元が緩んでしまった。
言われた通り手を洗い食卓に戻ると、カレーのほかにも作り置きだというおかずがいくつか並んでいた。
「うまそうだな。いただきます。」
「どうぞ。お口に合うといいですけど。」
お茶を淹れることに集中しているふりをして、その実、そわそわと弥勒の反応を窺っている珊瑚が可愛い。
おかずを口に運び、自然と口元を綻ばせて「うまい」と告げると、珊瑚は頬を染めながら、そっけない口調で「よかったです」と言った。
相当腹が空いていたのと、久しぶりの家庭料理が嬉しかったのとで、あっという間に平らげた弥勒を、珊瑚は不躾にならないように、だが眩そうに見ていた。
「ごちそうさまでした。」
「お粗末様でした。」
そう言って皿を下げようとする珊瑚を制し、流しへ運ぶ。
トコトコとついてきた珊瑚は冷蔵庫のほうへ向かい振り返ると「アイス食べます?」と聞いてきた。
その少し恥ずかしそうな口調が可愛かったので、普段甘味など食さない弥勒も思わず頷いてしまった。
「これが金曜日の夜の楽しみで。」
そう言いながらカップアイスを頬張る珊瑚は本当に幸せそうだ。
「1週間頑張ったご褒美に。こんな時間だけどちょっといいスイーツを食べるんです。」
「なるほど。それは仕事にも張り合いが出るな。」
そうだといいですけど、と彼女は苦笑する。
「ところで、エビとかカニとか、随分豪勢なものが冷凍庫に見えましたけど。パーティーでもするんですか?」
「やだ!勝手に見ないでください!」
「見えたんですよ。」
もうっと怒る珊瑚がチラリと視線を寄越す。何か意味があるのだろうか?
「…こないだのホテルでご馳走してもらったブイヤベース。美味しかったから、明日は休みだし自分で作ってみようかなって…」
おや、と眉を上げると彼女は慌てたように取り繕う。
「レシピ見ながら見様見真似でできるかもって思って。今日ちょうど魚介が安かったから…。」
「…ああ。」
「もう。ご飯食べたなら帰ってください!」
居たたまれなくなったらしい珊瑚は、弥勒を追い出そうとする。
「いや、だって帰りたくないんですよ…」
これはそういう意味の「帰りたくない」ではない。
父の居るホテルに帰りたくないという意味だと分かったので、珊瑚は気軽に取り合う。
「何言ってるんですか!いい大人なんだから…」
「しかし…」
いつも大人な態度の弥勒のきまり悪げな表情が珍しく、とりあえず珊瑚は動きを止める。
「お父さんと仲悪いんですか?」
「んー、悪いというか、あんまり関わりがなくて…。」
「…二人でしゃべるのは、気まずいとか?」
「それもあるが…」
言いよどんだ弥勒がチラリと珊瑚を見ると、真摯な瞳とぶち当たる。
その瞳の純真さに白旗を上げた。
「今父は、私に家業を継がせようと躍起になっていまして」
「…家業?」
「まあいくつか経営している会社の統括というか、そういう仕事をね。」
「えっ!?会社を経営って…すごい人なんじゃ…」
驚きに目を丸める珊瑚の表情を見て、苦笑を浮かべる。
「まあ一粒種なので、いずれは受け継ぐことを覚悟しているが、今はまだこの通り若輩なので。」
「お父さんには言ってるんです?」
「言う隙もないというか、どうも父は生き急いでいるように見えて、私は引いてしまう。」
意味を理解しかねた珊瑚の眉間が寄っていく。
「…お父さんから、逃げているってこと?」
「そうなのかもな。」
「ちゃんと、向き合ったほうがお互いのためなんじゃないですか?」
「…そう簡単に言ってくれるな。」
弥勒のその台詞が、これ以上は踏みこんでくるなという拒絶に思え、珊瑚の瞼は簡単に熱くなる。
涙目になっていることを悟られまいと、そっぽを向いた珊瑚の手を、弥勒が握った。
「だが、お前が私を心配してくれる気持ちが嬉しい。」
その台詞を聞き、途端に涙が引っ込み、代わりに頬が熱くなる。
そっと振り返った珊瑚の瞳に映るのは、ことさら優し気な男の微笑み。
「…今夜、泊めてくれますよね?」
その彼が表情そのままの甘い声で告げた要望に、珊瑚は曖昧に頷いてしまった。


翌日、二人は仲良く台所に立っていた。
手際よく具材を切ったり、下拵えを進めていく弥勒の横で、珊瑚は鍋の番をしている。
しかし彼女の胸中は複雑だった。
海外生活も長く、数々の浮名を流していたらしい弥勒だけに、いわゆる「お泊り」などという状況において、絶対何かされると思っていた。
そうでなくても、妙齢の男女が一晩を共に過ごしておいて、何もないなんてことはあり得ないと、恋愛方面に疎い珊瑚でも、友達の話や雑誌の情報から思っていた。
しかし実際、夕べ、二人の間には何もなかったのだ。
一人暮らしのワンルーム。寝室などあるはずもなく、当然同じ部屋で休むこととなった。
狭い部屋に客用の布団も用意がなかったため、冬布団を床に敷いて、彼にはそこで横になってもらうしかなかった。
そろそろ本格的な秋に差し掛かろうというところだが、近年の秋は暑いくらいのこともある。よって弥勒は凍えることなく一晩を無事やり過ごせた。
(別に、何かしてほしかったわけじゃないけどさ…)
誰に聞かれるわけでもないが、心中で言い訳をする。
「…ご、珊瑚!」
「え?」
「鍋、焦げちゃいますよ。」
弥勒の指摘に、ガスの使用中に考え事をしてしまったことに気が付き、慌てて火を止めた。
「うん。美味そうにできたな。早速食べよう。」
彼が向ける優しくも、何か含みを持たせた笑みは、珊瑚の胸中などお見通しだと語っているようで、目を逸らしてワタワタとした動きで盛り付けを行う。
冷静に考えれば、異国での旅の間は部屋は違えど同じホテルに何日も宿泊していたし、先日などベイサイドホテルで同室だったのだ。
その段階で何もなかったのだから、それが異性の部屋になろうが、弥勒にとっては大したことないのかもしれない。
浮かない顔で席に着くと、弥勒がワインボトルを傾けて微笑んできた。
ホテルのシェフとも通じているらしい弥勒は、「隠し味には魚醤を使っているそうですよ」と言って、開店時間にあわせて朝からスーパーに走ってくれた。
「余ったら後で飲もう」と、料理酒で代用しようと思っていた白ワインや、チーズや生ハムなど、お酒のつまみになるものも買ってきてくれたのだ。
そして、どれも高級そうだ。
(住む世界が違う…)
まるでホームパーティーの様相を呈してきたが、構わず珊瑚のコップにワインを注いだ弥勒は無言で促した。
普段お酒を飲まない珊瑚の家に、ワイングラスなど洒落たものはなく、何の味気もないただのコップ。
だが、素敵な男性から白ワインを注がれ、シュワッと細かい泡が浮き上がると、不思議と雰囲気が出るものだ。
そっと鼻を近づけ香りを確認した後、ゆっくりと口に含む。
「…おいしい。」
「でしょう?」
「ほんのり甘くて飲みやすい。食事と一緒でもあいそうですね。」
すぐにぽっと赤くなった珊瑚の頬を優しく見つめた後、彼もワインを煽る。
ブイヤベースと、余った海鮮で弥勒が作ったパスタを頬張りながら、仕事のことや、珊瑚の一人住まいのことなどで会話は盛り上がる。
(楽しい…)
程よく酔いも回り、珊瑚が上機嫌でそう思っていた時、インターホンが鳴った。
「…誰だろう?」
「心当たりはないのか?」
「え、特には…」
「ならば、私が出よう。」
「いや、私の家ですし…」
「女性の一人暮らしなんだから用心に越したことはない。」
そういうとさっさと玄関に向かう。
彼が去った後に、客人が知り合いだったら男が出てきたら不味いだろうということに思い当たった珊瑚は、慌てて追いかけた。
リビングのドアを開けると、短い廊下の先は玄関だ。
すでに玄関の扉は全開で、そこにはずんぐりとした巨体の男が立っていた。
それは所謂まるでとある動物のような…
「え、信楽焼の…たぬき?」
「失礼な!」
すかさず突っ込まれ、とりあえず閉口する。
「珊瑚さんですね」
「…だれ?」
警戒心を強めた珊瑚が、その狸のような男を、きっと睨み返した。
「…ハチ。お前何しに来た。」
珊瑚をかばうように前へ出た弥勒は、聞いたことのないような低音の声で、その男に尋ねた。
「そんな睨まんでも珊瑚さんに危害は加えませんよ。…これ。」
男はゴソゴソとスーツのポケットをあさると封筒を2通取り出した。
「招待状です。」
「何の?」
「お忘れですか?来月、就任披露パーティーですぜ。」
「…忘れてはいない。」
「会長とのお約束でしょう?今度こそパートナーの女性を連れてくるって。」
「…パートナー?」
珊瑚が呆然とその言葉を繰り返す。
「ま、そういうわけで渡しましたからね。坊ちゃん。」
「…坊ちゃんはやめろ。」
脱力した弥勒と、当惑している珊瑚に軽く会釈をして、その狸男は立ち去った。
「…すまん。ここをかぎつけられるとは。」
「いえ…今の方はいったい?それよりパーティーって?」
「ああ。気にするな。お前が心配することはない。」
「え…?」
さっきまであんなに楽しく過ごしていたのに。
意味不明のやりとりと、彼の素っ気ない態度によって。
まるで珊瑚は冷や水を浴びせられたように、急激に心が冷えていった。


夕月夜
大きな噴水が優美に煌めく庭園で、朧に浮かぶ月を見ながら、その場に似つかわしくない表情を浮かべる女性がひとり。
珊瑚はそこで、紺色で控えめだが、光沢が上品なパーティードレスを着て唇をへの字に結んでいた。
ここは、先月あの狸男が弥勒に招待状を渡していた、彼の父親主催のパーティーだ。
結局珊瑚がその招待状を弥勒から渡されることはなかった。
にもかかわらず珊瑚はれっきとした招待客となっていた。
そもそもこのパーティーは、彼の勤めている企業において、彼が重要な役職に就任を記念するものらしい。
そこで、彼が現在出向していて、心血を注いでいるプロジェクトの提携先である珊瑚の会社の社員も数名招かれることとなった。
もちろん、彼の配属されているファッション部を中心に、役職付、プロジェクトに深く関わる人員が選別されていたのだが、急遽その中の若手の女性が来られなくなった。
そのまま欠員でもよいのだろうが、名のある人々が招かれているというこのパーティーで一人でも多く名を売っておきたい、いろいろと小回りの利く若手社員をつけておきたいという社の思惑から、欠席した女性の同期である珊瑚に白羽の矢が立ったのであった。
本日の主役である弥勒は、当然招待客への挨拶回りや、ビジネスの打ち合わせなども並行して行い、多忙を極めていた。
珊瑚たち社員が挨拶に行くと、役職たちとはしばらく談笑していたが、後ろに控える下っ端たちには「よく来てくれたね」と微笑んだだけだった。
珊瑚ももちろん後者のくくりの中だ。
その後、会社の面々も他の招待客との交流を始め、珊瑚も飲み物を配ったり、名刺を整理したりと何だかんだ気忙しく過ごし、今しがたひと段落着いたところだった。
今日は仕事なのでノンアルコールのカクテルを片手に庭園のベンチに座り込む。
午後から始まったパーティーだったため、もうすぐ日の落ちるこの時間には、皆酔いが回ってくつろいだ雰囲気になっていた。
だが珊瑚は不満げだ。
自分が代打に選ばれたことは、珊瑚を驚かせたと同時に喜びと不安をもたらした。
弥勒とプライベートで繋がれる喜びと、未知の「パートナーの女性を連れてくる」不安。
今のところ、後者のほうは特に発表はない。それはクライマックスのお楽しみなのかもしれない。
珊瑚は実はその点に関しては散々思い悩んだが、もともと住む世界が違うと分かっていたので、「その女性」の存在は納得していた。
むしろ、彼の好意ではなく、れっきとしたビジネスパートナーとして参加しているという自負があるのに、そこをあのように軽くあしらわれたことが不服なのだ。
確かに彼にとっては単なる下っ端社員なのかもしれないが、それなりにやりがいと責任感をもって仕事をしているという自尊心をポキリと折られたような。
「はぁ」
考えすぎだと小さく頭を振ると、ふと人の気配を感じた。
顔を上げると、壮年の男性が一人歩いてくるのが視界に入る。その足元はふらふらとおぼつかない。
酔っぱらっているのだろうか。あまりじろじろと見てはいけないと思うが、その顔色の悪さが気になってつい目を向けてしまう。
するとその男性は、庭園の中心にある噴水の淵に手をつき、崩れるように蹲った。
「大丈夫ですか!?」
驚いた珊瑚が駆け寄り声をかけるも、反応がない。
呻き声をあげているその男性の肩を叩くと、そのまま倒れてしまった。
どうやら意識を失ってしまったようだ。
珊瑚は一瞬目を見開くも、周囲を確認し、すぐに真剣な表情になった。
荷物を置き、ヒールを脱ぐと、男性の体を起こし、気道を確保する。
口の中と心音を確認すると、体勢を立て直し、心臓マッサージを始めた。
すぐに、男性は噎せこみ、心臓は正常に動き出した。
安堵した珊瑚が息をつくと、給仕が遠くを歩いているのが見えた。
大きな声をあげ、救急車を呼んでもらえるように依頼した。

救急車到着まで、苦しそうに噎せる男性の側に控え背中をさすってやった。
すぐに救急車が到着し、異変に気付いた人たちが集まってきた。
男性は重役らしく、秘書らしき人物が各所に連絡をとり、すみやかに搬送されたようだ。
どうも持病があるようで、かかりつけの病院がすぐに手配できたようだった。
(疲れた…)
「あの、すみません。少しよろしいか。」
一仕事終え、珊瑚が噴水に腰かけ息をついていると、きちんとスーツを着込んだ男が目の前に現れ、名刺を差し出してきた。
「はぁ。」
珊瑚はのろのろと立ち上がり、そこで己が裸足であることに気付いた。
ヒールは彼の背後に転がってしまっているが、目の前の人物を無視して取りに行くわけにも行かず、仕方なくそのまま名刺を受け取る。
そこには本日の主催者−弥勒の務める会社の名前。
「失礼ですが、名刺を頂戴しても?」
「あ、は、はい。すみません!」
噴水の側に落ちていたハンドバッグを拾い上げ、ガサガサと名刺を取り出す。
「ふむ…なるほど。とりあえずどうぞ。」
男性はそう言うと、珊瑚のヒールを持ち上げて、揃えて彼女の前に差し出す。
珊瑚が礼を言い履いたのを確認すると、他人に聞かれたくない話があるらしく、人だかりから外れた物陰に誘導された。
「…先ほど助けていただいた方をご存じで?」
「…いえ、すみません。存じ上げなくて…私は今日は手伝いのようなものでして…」
「それなら結構です。先ほどのことなのですが、他言しないでいただけますか?」 「え…」
どういうことだろうかと見上げる珊瑚を、見下ろす男性の眼鏡の奥の瞳は、口調とは裏腹に、凍るように冷たい。
珊瑚が何かを言おうと口を開くが、表情筋が強張ってしまい上手く声にならない。
そんな様子を、何の感情も見せない表情で見ていた男が、柔らかな口調で続ける。
「今日助けた人物が誰なのか、どんな症状だったのか、どの病院へ運ばれたか、探りを入れるものが必ず現れます。しかし、貴女は知らぬ存ぜぬを通してください。」
珊瑚はそこで、小さく頷くのが精いっぱいだった。
その仕草を見て、男が初めて笑みのようなものを浮かべた。
そして珊瑚の耳もとに唇を寄せる。
「我社と御社との提携プロジェクトにも関わってくると、ご承知おきください。」
珊瑚がその言葉の意味を理解するころには、丁寧な礼をした男は去った後だった。

「お疲れ様でした。」
不穏な空気が流れだしたパーティーの空気を無理やり収拾し、何とか控室に戻ったところで眼鏡の男に声をかけられた。
「お前は確か親父の第一秘書の…!」
「ああ、覚えてくださっていましたか。お坊ちゃま。」
「…お坊ちゃまはやめろ。」
「失礼。これからは専務、でしたか?」
失礼などと微塵も思っていないことを、隠す気のない表情で告げる男を睨む。
「…親父の容体は。」
弥勒の父―すなわちグループの会長というのが、パーティー中に発作で倒れた男性の肩書だった。
「おや、お耳に入っておりましたか。箝口令を敷いておりましたのに。」
「…」
本日の主役であることや、社の重役であるという前に、弥勒は会長の実の息子だ。
その弥勒をも箝口令の対象に加えるなど、権限の逸脱ではなかろうか。
そうは思うも、表立って顔には出さない。この男が昔から己を嫌っていたことは知っているし、腹に一物抱えていることも勘付いている。
しかし今の不安定な立場でこの男を自ら敵に回すのは得策でないことも、心得ている。
「応急処置が適切だったので、大事には至らずに済みました。」
「…そうか」
それを聞き、小さく息をついた。我知らず息を詰めていたようだ。
そこで机の上の広がる書類の中に、見覚えのあるデザインの名刺が目に入った。
そこに記載されている名を見て息を呑む。
「その名刺をどうした?」
動揺を悟られぬよう努めて冷静を装ったが、先ほどまでより幾分低い声になってしまう。
「ああ、その応急処置をしてくださった女性ですよ。念のために身元確認を。」
「…その娘に…」
何かしたのか?と聞きたかったがこれ以上問い詰めては、逆に彼女が己にとって特別な存在だと悟られる可能性がある。
「いや、何でもない。後片付けに行く。」
そのまま弥勒は踵を返した。
「もうお戻りで?」
「ああ。親父のことを聞きに来ただけだから。…そちらのことは頼んだ。」
「ええ。滞りなく。」
複雑な心中ですでに歩き出していた弥勒は、慇懃無礼にうなずいた男の表情を見ることはなかった。


あの後のことを珊瑚はあまり覚えていない。
パーティーもなし崩し的に終了となった。
恐らく同僚の誰かが送ってくれたのだと思うが、気が付いたら家についていて、この日のために買ったパーティードレスを着たまま座り込んでいた。
スマホを開くと何人かから労いや心配のメッセージが入っていたが、弥勒からの連絡はない。
(そりゃそうか…)
何となく気落ちして、画面に表示されている時間がいつの間にか日付が変わっていたことを示しているのに気づいて気だるそうに立ち上がった。
今さらだがしわにならぬようドレスを脱ぎ、風呂場に向かう途中で足を止める。
誰もいない玄関を見つめてふと思い出す。彼がうちに泊まっていったのはつい先月のこと。
翌日、狸のような男が突然訪ねてきて、わざわざ珊瑚の家で彼に招待状を渡していった。
「招待状、誰かに渡したのかな…」
鼻の奥が痛くなり、急いで風呂場にかけこみシャワーを浴びる。
彼と出会った異国での夏、熱意をもって取り組んでいる仕事中の姿、穏やかに笑いかけてくれたベイサイドホテルの一夜…。
素敵な思い出が走馬灯のように脳裏をめぐり、心臓が高鳴る。
しかし、どこかの御曹司で皆に囲まれる姿、下っ端の己には視線の一つもくれなかった今日の様子、そしてスーツの男の氷のような視線を思い出すと、高鳴った心臓がそのまま止まってしまいそうに苦しくなる。
瞳から熱いものがあふれているが、シャワーを頭からかぶっていた珊瑚は、それには気づかないふりをしてやり過ごした。

翌日珊瑚は、頭と胸の痛みを押し隠し、普通に出勤していた。
しかし集中できず、仕事に身が入らない。
繁忙期でなくてよかった、と小さく息をつくと、一人のスタッフが慌てて近づいてきた。
「ヌマダコーポの方がいらしてるぞ!」
「沼…?私に?」
「スポーツ部の珊瑚さんって言ってるんだ。君しかいないだろう?」
「アポはなかったと思いますけど…。」
「そんな悠長なこと言ってる場合か!あの有名なヌマダだぞ!」
珊瑚とて名は聞いたことがある。業界きっての大企業だ。
その大企業の人がなぜ下っ端の自分に会いに来るのか。
周りの同僚たちにも急かされ、しぶしぶエントランスに向かう。
そこには黒髪の小柄の女性と、スーツを着た眼鏡の男が立っていた。
その男には見覚えがある。
「…!」
仕事の話じゃないと直感した珊瑚は、応接室を借りて二人を案内し、扉に鍵をかけた。
その様子を見ていた男が感心したように笑う。
「察しがよろしいようで。」
「…何の御用でしょうか。昨日のこと、誰かにしゃべったりしてませんよ。」
「ええ、それはもちろん、信じておりますよ。今日はそのことで伺ったんじゃないんです。」
そうだろう。そうでなければこんなに場違いにニコニコしている女性を同伴したりしないだろう。
「では、自己紹介を。」
男に促された女性は、小さく頷いて改めて珊瑚に向き合った。
「初めまして。わたくし、ヌマダコーポの営業部長をしております、志摩と申します。」
「志摩さまはヌマダコーポの社長令嬢でいらっしゃいます。」
「はあ…。」
気の抜けた返事をしてしまったが、続くであろう言葉に嫌な予感しかせず、口の中が苦くなっていく。
そして残念なことに、嫌な予感は当たってしまう。

「わたくし、弥勒様の婚約者なんです。」

その瞬間、珊瑚の頭は真っ白になった。





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