星夜の人形

棚田が美しい、のどかな村だった。
長く歩き詰めていた旅程で久々に行き当たった村だったこともあり、村一番の大きな家に宿を求めたのはまだ明るい刻限だった。

こんな穏やかな場所で時間が空くと、彼らは自然と散り、各々で時を過ごすことも多い。
今も退治屋の珊瑚は、相棒の猫又を肩に乗せ村を歩き回っていた。
特に目的があったわけではない。
先日敵の手の内にある実弟と出くわし、心が酷くかき乱されたばかりで、仲間と無為に過ごすのが何となく気まずく、出てきたのだ。
つらつらと考え事をしていると、目の前を小さな影が走っていき、コテンと転んだ。
「あ、ちょっとあんた大丈夫?」
「ふっ…くっ…」
慌てて駆け寄り転んだものを起こしてやる。
それは、幼い男児だった。三〜四歳くらいか。
膝を擦りむいたようで、小さな子には痛いだろうしびっくりしたろうに、必死に泣くのをこらえる様子に、珊瑚は思わず口元を緩ませてしまった。
「ちょっとの間、我慢してよ」
通ってきた道に小川があったのを思い出し、男児の手を引いてそこまで引き返し、傷口を洗ってやる。
ひどい傷ではなかったが、念のため手持ちの消毒の薬草を貼り、手ぬぐいを裂いて巻いてやった。
手際のいい手当を見ているうちに涙も引っ込んだらしく、男児は膝小僧と珊瑚の顔を見比べたあと、「ありがと…」とたどたどしくお礼を告げた。
「どういたしまして」
一生懸命の男児にすっかりほだされた珊瑚は彼に目線を合わせしゃがみこみ、頭を撫でてやった。
「あんたこそ、よく泣かずに頑張ったね。えらいえらい」
男児は恥ずかしそうにその手から離れる。
「さ、家まで送ってやるよ。あんたの家はどこだい?」
立ち上がり、再び彼の手を繋ぎ元の場所へ向かおうとするも、彼は動こうとしない。
「どうした?」
「一人で…帰れる…」
「でもそんな傷こさえて帰ったら母上が心配するだろ?」
「はは…かあちゃん?居ない。」
「そしたら、父ちゃんは?」
「いない。」
この時代、両親の居ない子供はざらにいる。どこかに預けられているのだろうか。
とは言え、もうすぐ日が暮れる刻限にこんな稚い子供を一人で帰すのは躊躇われた。
「せめて家の前まで送らせてよ。もう少しあんたと一緒に居たいんだ。」
そう言ってにっこり笑ってやると、少し逡巡したものの、コクリと頷いた。

男児を宥めるためにああいう言い方をしたが、実のところ彼と離れがたいのも本音だった。
後ろで束ねられた短い髪や、色素の薄い肌色、怖がりだろうに一生懸命に強がる姿。
それらが可愛い弟を想起させる。
「名前、なんていうの?」
「ヨウ太。」
「そっか。あたしは珊瑚っていうの。こっちが雲母。」
愛らしい小さな生き物を見て、ヨウ太は嬉しそうに笑った。
彼が転んだ場所を少し上ったところに、小さな小屋が立っていた。
「ねえちゃん!」
その家の前に人影があり、その人物を姉と呼び、驚いたように駆け寄る。
(姉と暮らしているのか)
自分よりわずかに年下に見える少女と、ヨウ太とのやり取りを見守る。
「ヨウ太…どこ行ってたの」
「寝てなきゃだめだよ。」
体の弱いらしい姉と幼い弟の二人暮らしのようだ。
どうにも感情移入してしまい、このまま二人を置いていくことはとてもできそうにない。

姉の名はカエと言った。
昨年両親が盗賊に襲われてから、村民の助けを借りながらも二人で暮らしているのだという。
カエもその時に負った傷が悪化し、今は臥せっていることが多い。
そんな事情を聞きながら、食事の用意をしてやる。
「ねえちゃん、今日はいつもよりぐあい悪そう…」
ヨウ太が心配そうに見守る中、珊瑚はカエの体を起こし、匙を持たせてやった。
食べさせてやることも考えたが、弟の前で弱々しい姿を見せたくなかろうと思いなおした。
「あんたがなかなか帰ってこなくて、心配かけたからだろ。」
少しずつ口に運びながら、強めの語気で話すカエを見、珊瑚はじくじくと胸が痛むのを感じた。
「ねぇ珊瑚」
「何だい」
己も一緒に食事を済ませ、後片付けをしているとヨウ太と雲母が遊ぶ姿を眺めていたカエが話しかけてきた。
「連れて行ってほしいところがあるの。」
「どこ?」
「裏山の山頂。そこに一本松があるんだけど…。」
言葉を濁したように思われ、言い辛いことなのかとそれ以上聞くことはしない。
「いいよ。明日連れて行ってやる。」
「ううん。今、今行きたいの。」
「今って…もう暗くなってしまったし、私もそろそろ帰らないといけないし。」
流石に仲間たちが心配しているだろう。
「もうちょっとだけ付き合ってよ。今日、あんたと会えたのは運命だと思ってるの。」
「今日、何かあるのかい?」
「行けば分かるから。お願い。」
縋るような瞳に、結局珊瑚は折れざるを得なかった。

雲母の背にカエとヨウ太を乗せ、珊瑚はその横をついて山を登っていく。
あぜ道を行き、雑木林を抜けると、彼女の言う通り樹齢を重ねていそうな一本松があった。
「よかった、間に合った…」
二人を雲母からおろしてやりながら、カエが食い入るように見つめる夜空を振り返った。
「あ…」
「ながれぼしがたくさん!」
ポツ…ポツ…と暗い空を流れゆく星の軌跡は、やがてその数を増やし、昼間のように空を明るく照らした。
「そうか…流星群…」
山道を登るときから今日は流れ星が多いな、とは思っていたのだ。
この時代、大自然の雄大な景色というのは珍しくもないが、流石にこれは荘厳で、珊瑚ははっと感嘆の息をついた。
「これが見たかったのかい?」
珊瑚が微笑を浮かべカエを見ると、彼女は予想外に苦痛に耐えるような表情で、両手を組みその手に力を籠めていた。
「ちょっと、大丈夫?」
慌てて傾く彼女の体を支えてやると、逆にその手を強く掴まれた。
そして苦しそうに告げる。
「この一本松の下で、流星群にお願い事をすると叶うんだって…」
「…そう…」
単なる言い伝えだろうと、珊瑚は彼女の必死の祈りを痛ましく思った。
「その願いが、真実の願いであれば、必ず叶うって…」
「真実の願い?」
「珊瑚…あたし、もう少し生きたい」
小さな呟きに、二の句を継げない。少し世話をして感じていたが、やはり相当悪いのか。
「…ヨウ太がひとりでも大丈夫になるまでは見ててやりたいよ…」
弟の前では気丈に振る舞っていたが、こんな不安を抱えていたのか。
「ううん…本当はちょっとじゃなくて、もっと生きたい。おいしいものを食べたり、恋だってしてみたい…」
お願い…と涙を流しながら祈る瞳は、流れ落ちる星たちに向けられていた。
「ねぇちゃん…」
ただならぬ様子の姉に気付いたヨウ太が心配そうに駆けてきた。
縋りつく弟と、涙顔を見られぬように愛弟を懐に抱きこむ姉の姿は、珊瑚の心を抉った。
何かを穢すことなく、ただただ綺麗に生きている姉弟。
否が応でも、在りし日の退治屋の里長の娘と息子を思い浮かべずにはいられない。
あの、おぞましい事件を迎えるあの日以前の、己と可愛い弟の姿を。
(もし私が変わってあげられたら…)
もしも変わってやることができたのなら、カエはこれから先も弟とともに生きられる。
そして自分は、弟と死んでやることができる。
そんなことをぼんやりと考え、顔を上げると、薄く瞼を開いたカエと目が合った。
その瞬間、ひときわ周囲が明るくなり、まるで流星が自分たちめがけて落ちてきたような感覚に陥った。


すっかり人々が寝静まる時刻になっても戻ってこない珊瑚を心配して、犬夜叉と弥勒が夜道を早駆けしていた。
塞いでいた彼女に気を遣い、そっとしていたのだがあまりにも遅すぎる。
「おう、珊瑚の匂いが強くなった。おそらくこの林を抜けたところだ。」
「山頂じゃないか。何故こんなところまで…」
「ひとりじゃねぇ。誰かいるな。」
「…まさか、逢引…?」
「ばーか、てめぇじゃあるまいし。ガキの匂いがする。」
弥勒は犬夜叉に気が付かれないように小さくため息をこぼす。
間もなく雑木林を抜けた。
「ほう。これは見事だな。」
山頂にたどり着くと、流星群が間近に見られた。
道中でも見えていたが、ここは見晴らしがよく格段に明るい。
「あっちだ。」
犬夜叉の指し示した一本松の下に、複数の人が重なるように倒れている。
一瞬青ざめた弥勒だったが側に控えた雲母の様子から、無事であることは察せられた。
「おい珊瑚、こんなところで寝てんじゃねーよ。かごめが心配してっぞ。」
犬夜叉が傍にしゃがみこんで大声を放つ。
「また、そのような言い方を…珊瑚、起きなさい。風邪をひきますよ。」
優しく起こしてやりながら彼女の下敷きになるように倒れていた幼い子供たちを確認する。
「誰だそいつら。」
「さぁ?」
思案していると、腕の中の人物がもぞもぞと動いた。
ぱちぱちと瞬きを繰り返しようやく開いた眼は、まだぼんやりとしながら己を抱える男の顔を見た。
「…珊瑚、目が覚めましたか?ここで何を?」
整った顔立ちの清廉そうな男が、優し気に問いかけている。
それを理解した瞬間、心臓がドキンと大きく鳴り、顔が熱くなった。
「珊瑚?」
いぶかしげな男の表情をぽっとなり見つめていたが、違和感を覚えた。
(さんご…?)
それは己の名前ではない。
ここに連れてきてくれた美しい女の名前だ。
ばっと顔を動かすと、傍で子供が二人倒れているのが見えた。
「え…」
小さい男の子はヨウ太だ。毎日見ているのだから間違いない。
それより大きい女の子は、あれは、自分ではないだろうか。
自分の顔をまじまじと見ることはないが、着ている着物、あれは間違いない。
とっさにぺたぺたと自分の体を確認する。
明らかに病弱で痩せた子供の体ではない。大人の女の体だ。星明りでよく見えるこれは紅白の着物だし、髪の毛もずっと長く艶やかになっている。
「大丈夫か、珊瑚?」
再度問われて、心配げな声をかけてくる法衣の男を見て確信した。
(わたし、珊瑚になってる…!)
「ねえちゃん、ねえちゃん!」
目を覚ましたらしい弟の声で我に返った。
では、珊瑚がカエになったのだろうか。
体を起こし、男の腕をはなれ、自分の体のほうに寄る。
健康な体は驚くほど軽快に動き、思ったより素早くそこにたどり着いた。
恐る恐る、うつぶせていた「カエ」の体をひっくり返す。
青白い顔で、微動だにしない。
(死んでる…?)
息をのんだ「珊瑚」の様子を見て、法師が「カエ」の胸元に耳を当てた。
ぎょっとしたが、体を起こしこちらを振り向いた彼の表情は穏やかだった。
「安心しなさい、生きています。」
「おい、珊瑚。こいつら誰だよ。」
そこで初めて、法師以外の男の存在に気が付いた。
「犬耳…?」
「は?」
異形の姿に少々の恐れと好奇心が湧くが、訝し気な白髪の男の視線に耐えられず、法師のほうを見る。
「村の子らですか?一緒に星見を?」
「えっ。…うん…。」
「星見中にガキと一緒に寝ちまったってか?案外抜けてんなお前。」
嫌味にも聞こえる口ぶりだが、「珊瑚」は特に言い返さなかった。
いつもならもっと食って掛かると思うのだが。
どこか様子のおかしい珊瑚を見て、男たちが目を見かわした。


村一番の富豪だという今日の宿主は、この山の所有者だった。
地主の家に帰ってくると、珊瑚は物珍しそうにキョロキョロと辺りを見ている。
先ほどから口数こそ多くないが、行動に落ち着きがなく、まるで子供のようだ。
一方本当の子供たちは珊瑚の案内で家に送ってやった。
弥勒は目を覚まさない娘を案じたが、弟も慣れているらしく、また明日朝いちばんに様子を見に行くということでそのまま別れた。
どこで知り合ったのか、どういう子らなのか聞いたが珊瑚の答えは要領を得なかった。
その日は一人一部屋与えられていた。弥勒は彼女を部屋の前まで送り、別れ際に思い出したように告げる。
「そういえば、湯殿の準備があるらしいですよ。」
「湯殿…?」
「ええ。とはいっても、恐らくもう冷めてしまっていると思いますけど。」
少々眉を下げながら教えてやったが、珊瑚は戸惑ったような表情を浮かべたまま動かない。
「どうしました?」
「…あの、湯殿って…」
「え?ああ、案内しましょうか。」
ややあって、コクリと頷いたので、手ぬぐいを持つように言い部屋に入れた。
なかなか部屋から出てこず、しびれを切らしかけたころ、ようやく準備を終えて出てきた。
いつもキビキビしているはずなのに妙に手間取ったらしい珊瑚を怪訝に思いながらも湯殿まで先導してやる。
「つきましたよ。」
「うん…」
またもやなかなか動き出さない彼女の顔を覗き込むと、上目遣いで見つめられた。
心臓がトクンと己に似合わぬ音を立てた。
普段ならすぐ逸らされる視線が、何故かあわさったまま刻が止まる。
「えーっと…」
気まずい空気を払拭しようと口を開くが、ガラにもなく言いよどんでしまう。
結局口をついて出たのはいつもの軽口だった。
「…背中、流しましょうか?」
パチン、と平手打ちで終わるはずだった。
しかし一瞬目を伏せた後、頷くために見上げた珊瑚の表情は、わずかに悪戯めいており、挑発された形の法師は、己のふざけた提案を実行せざるを得なくなったのだった。

民草の住む家と比較すると大きな屋敷とは言え、単に土地持ちの家だ。
湯殿の規模もたかが知れており、脱衣場は気休め程度に目隠しになっているだけだった。
そんな場所で法師は珊瑚に背を向け、袈裟と墨衣を解く。
白衣だけとなり、背後から聞こえる衣擦れの音を、あまり聞かないように目を閉じる。
「いたっ」
「どうした?」
「やっ…何これ…」
動揺した娘の声に、振り向かざるを得ない。
小袖を脱いだ珊瑚が、自分が身に着けている手甲を、初めて見るように見つめている。
しかし手甲の先、その白い指先から流血しており弥勒は眉をひそめた。
どうやら、手甲に隠していた暗器で怪我をしたらしい。
すぐさま手ぬぐいで血止めしたが、珊瑚は青褪めてしまっている。
「どうした?お前、さっきから様子がおかしいぞ。」
我に返った珊瑚が震える唇で何か呟いている。
「今日はもう休んだほうが良い」
「いやっ!」
思いのほか、力強く言い返され口を噤む。
「大丈夫だから…あの、これ脱がせてもらっていい?」
「は?」
「お願いします。」
何故か頑なに風呂に入ろうとする珊瑚に、戯れで返すこともできず、言われた通り仕込まれた暗器を取り外してやる。
彼女はその様を物珍しそうに眺めていた。
「はい、できましたよ。」
「ありがとう。」
満足げに頷くと、何の躊躇もなく、単衣を脱ぎ始めるものだから、慌てて身をひるがえす。
(何の罠なんだ…)
明らかに珊瑚は常態ではないが、妖気や霊気は感じないので憑依されたわけではなさそうだ。
「何か変なもん食ったんじゃないよな…」
「なに?」
げんなりと呟いた法師を無視し、珊瑚は体の前面に手ぬぐいを当てると、恐る恐るという足取りで、湯場に向かう。
大きな甕にたっぷりと湯が張られていたが法師の言った通り冷めてしまっていた。
どう使うのか思案していると、動く気配のない珊瑚を気にして、法師が声をかけた。
「すっかり冷めているだろう。我々のために、薬草を一緒に漬けてくれているそうだから、体を拭わせてもらうとよい。」
「…うん。」
どこか困惑しているような声だ。
「どうした?」
心配になり振り返ると、珊瑚は甕を見下ろし湯が揺蕩うのをじっと見つめている。
その表情は声の通りの戸惑いが浮かんでいた。
「…背中流しますか?」
思わず出たのは不埒な台詞のはずなのに、逆に安堵したような顔で珊瑚は頷いた。
手桶に湯を取り、持っていた手ぬぐいを浸し、椅子に座った彼女の背に回る。
「…っ」
思わず声を上げそうになり、慌てて飲み込んだ。
無防備な背中には、目をそらしたくなるような痛々しい傷跡がある。
話には聞いていたし、着替えや湯浴みを覗いているので見るのも初めてではないが、明かりの下で、これほど間近で見たことはなかった。
おなごの肌をまじまじと見るものではなかろうと、己に言い聞かせて傷を覆うように手ぬぐいをそっと当ててやる。
本心は、色香をまとった白い肌を見つめていると、変な気を起こしそうだったからなのだが。
(こうまで照れもなくさらされると、誘われているというより、むしろ男としてまったく眼中にないのではないかいう気がしてくるな)
などと変な方向へ思考を巡らせていると、珊瑚が呻いた。
「すまん、力入れすぎたか?」
「いたい!何?」
「え?」
驚いた様子で立ち上がった珊瑚は、背中に痛みを感じるらしく、片手を己の背後に当てる。
「おい、前が見える…」
「や、何!?やだこれ傷?こんな大きな傷が?いたい…」
背中に傷があることに、今気が付いたようだ。
そしてその傷に薬液が染みて痛みを感じるらしい。
弥勒はまだ喚いている珊瑚の両手をとらえ、引き倒して馬乗りになった。
「きゃあ!」
不意とは言え、その狼藉に抵抗もできずに押し倒されるなど、普段ならあり得ない。
「…おまえ、何だ?」
「ほうしさま…?」
「いや、確かに珊瑚なのだろう。体は。」
彼の台詞に、明らかな動揺が瞳に浮かんだ。
「お前を見つけてからずっと様子がおかしかった。いつもより幼いというか…記憶が混濁しているのか?とも思ったが、そうだとしても珊瑚は、自分の傷をそんな風に扱わない。」
(傷は退治屋の勲章のはずだ)
己の下で怯えるように見上げてくるおなご。体を隠す手ぬぐいは、豊かな体を覆いきれていない。
もはやか弱いくらいに見える姿に、だんだん己が悪人のような気がしてきて、腕の拘束を緩めた。
「…もう一度問う。お前はなんだ。」
真剣なまなざしに、「珊瑚」は観念したように目を伏せ、目を潤ませながら告げた。
「ごめんなさい…こんなことになると思わなかったの。」


(苦しい…)
珊瑚は息苦しさから覚醒した。
重たい瞼を数度瞬かる。流星群の演舞が続いており、目はすぐその薄闇に慣れた。
すると、己の居る場所が今日出会った姉弟の小屋であることが分かった。
(どうしてここに…)
体を起こそうと身じろぐが、四肢は思うままに動いてくれない。
それどころか肺にキリキリとした痛みを感じ、咳込んでしまった。
「だいじょうぶ…?」
近くで眠ってたらしい子供を起こしたようだ。
この舌っ足らずな声は、ヨウ太だ。
大丈夫と言おうと口を開くと、また咳が出てしまう。
ヨウ太が目をこすりながら、起き上がり背中をさすってくれた。
「お星さまは、おねがい聞いてくれなかったのかな。」
「…え?」
幼子の悲し気なつぶやきに問い返した声は己の声とは違って聞こえた。
普段よりか細く、でも愛らしい声。
「ねえちゃんの病気が治るようにって、何度もおねがいしたんだけど。」
そう言って少し照れたような視線を向けられ、珊瑚は困惑した。
これではまるで、自分がヨウ太の「姉」のようだ。
寝ぼけているのだろうか。そういえば本当の姉であるカエはどこだろうかと、重たい頭を動かしたとき、簡素な引き戸が開いた。
「無事か!!」
乱暴に開かれた戸から、息を切らせた法師の声が響く。
驚いて、体を起こそうにも、咳は酷くなってしまった。
「ねえちゃん!」
「珊瑚!」
法師は駆け寄り、呼吸の苦しそうな娘を抱き起こしてやる。
気道を確保し、ゆっくりと手持ちの竹筒から水を飲ませてやると、ようやく症状は落ち着いた。
安堵の息をつく法師にお礼を告げようと顔を上げた珊瑚は、彼の背後に所在なさげに佇む娘を見て、固まった。
「え…」
珊瑚の様子に気が付いた娘は、頭をかきながら、へらっと笑った。
「ごめん、珊瑚。私たち入れ替わったみたい。」
そんなほんわかした表情と突拍子もない台詞は、己の顔には似合わないなあ、と現実から逃避するようなことを考えてしまった。


目を覚ました時、最初に感じたのはじっとり汗ばんだ気持ち悪さだった。
山の中腹にある村は、夜は風が入り随分涼しかった。
なのに朝になって何故…とぼんやり考えていると、腕の中に何か抱えていることに気が付いた。
どうやらそれが熱を発していて、おかげで汗ばむほど布団の中の温度が上がっているようだ。
「え…」
腕の中のそれが突然もぞりと動き、それが人であることに気が付いた弥勒は息をのんだ。
恐る恐る手を這わすと、少し固いが手触りのいい滑らかな長い髪の毛に触れる。
それをかき分けて当たる柔らかくもしなやかなその感触は、背中だ。
(おなご…)
何がどうなっているのか分からないが、とにかく正体を確かめようと、そっと布団をめくると、よく見慣れたおなごの無防備な寝顔が目の前にあった。
「さ!?」
それが仲間の珊瑚であることを認めると、慌てて体を起こし、横向きのまま猫のように丸まってしまった珊瑚の体を観察する。
必要以上に乱れていない着物に安堵し、ようやく昨夜のことを思い出した。
流星群がもたらした奇跡。そう、そこで眠っているのは。
「カエ…」
何の意図かは知らぬが、珊瑚の姿態で布団に潜り込んでくるなど悪戯が過ぎる。
軽く揺さぶるも、気持ちよさそうに眠り続ける様子に、思わずその凪いだ寝顔を見つめてしまう。
カエという娘は、盗賊に襲われた際に負った傷がもとで、病に蝕まれている。
昨夜もカエの体は苦しそうに咳込んでいたし、夜もまともに眠れていなかったに違いない。
それがどうだ、今は珊瑚という健康な体を得て、安眠することができている。
そのことが、これほどまでに穏やかで稚い「珊瑚の顔」を拝むことを叶えているのだ。
そもそも、命がけの旅路で気を張っている珊瑚の穏やかな表情はおろか、通常はこのように寝顔をまじまじ見つめることなどない。
彼女自身他人に寝顔を見せるような性質ではないのはもちろん、弥勒もそこまで踏み込むことを避けている。
女性に対する配慮というだけではなく、深みにはまらないための防衛線であることを弥勒は自覚している。
とは言え、眼前にこれだけ無防備に美麗な顔をさらされては、思わず見つめることを止められない。
中身は珊瑚ではないという安心感も手伝い、白く張りのある肌やすっきした顎、柔らかな生え際、そして愛らしくわずかに開いた唇をじっくりと観察してしまう。
無意識に唾を飲み込むと、物欲しげにそのふっくらした頬に手を伸ばした。
パチリ
まるで音が聴こえそうなくらいの勢いで、大きな瞳が開いた。
慌てて手を引っ込めると、娘は二、三度瞳を瞬かせた後、その口元ににやりとした弧を描いた。
「…カエ」
今度こそはっきりと、窘めるような声で相手の名を呼んだ。
「何をしている。」
「ほーしさまこそ。」
悪びれない態度に思わず眉を上げてしまう。
どうやらこの娘、見かけによらず(今は珊瑚だが)、強気な性質らしい。
病と闘いながら健気に弟と暮らしていると聞いたので、勝手に大人しい娘を想像していた。
昨夜、事の顛末を聞いた弥勒は、カエの姿をした珊瑚を小屋に放置しておくこともできず、弟とともに屋敷に連れ帰った。
とりあえず珊瑚にあてがわれた部屋に二人とも休ませていたはずだが。
「私は何もしていませんよ。お前が勝手に潜り込んできたんでしょう。」
不憫な境遇の少女だが、珊瑚の体を自由に使われているという状況がどうも言動に棘を生んでしまう。
また、昨夜騙されて珊瑚の半裸に動揺させられたという不満もそれに拍車をかけている。
「一回やってみたかったんだよね。」
「何を。」
「夜這い。」
「お前ね…」
呆れたようにため息をこぼし、体を起こす。
一緒に起き上がった「珊瑚」は、普段見られない寝ぐせや緩んだ襟元が目立つ。
(寝相とは、その人の気性が影響するのか…?)
ぼんやりと見つめていると、それに気が付いた娘が、不思議そうに見返す。
その表情は別人のように幼い。
「珊瑚の顔のはずなのに、表情はカエだな。」
苦笑しながら髪の毛を梳き、襟元を正してやる。
「子ども扱いしてるでしょ!」
ぷっと膨らませた頬では、まったく迫力がなく、その顔の愛らしさに思わず声をあげて笑ってしまった。
本人たちからしたら、親子のそれのような触れ合いのつもりだったが、端から見たら大人の男女が寝所で体を触れ合わせているという妖しげな状況だ。
「ねぇ」
「はい。」
「法師様は、恋人なの?」
「は?」
「珊瑚と法師様は恋人同士なの?」
「…なぜ?」
「なんていうか、雰囲気が。珊瑚に優しいし、昨日、うちに駆け込んでいったときすごく必死だったし。」
「仲間を大事にするのは当然でしょう。」
「ううん。優しいを越して、甘ぁい感じ。それに…何だかずっと、落ち着かないの。心臓がざわざわする。これって、恋じゃないの?」
「…それは、お前が私に恋しているのでは?」
妙な告白をされ、複雑な気持ちになってしまう。
「え、そうなの?恋って、昨日の今日でできるものなの?」
「まあ、ひとめぼれという言葉があるくらいですから。」
「ふーん。まあいいか。恋ってしてみたかったし。じゃあ今から私の恋人になって。」
「あのね。それどころじゃないでしょう…」
カエには気の毒だが、いつまでも珊瑚の体に居ついてもらっては困る。
少女の将来については、この入れ替わりが解決しない限り、考えてやることもできない。
「…だって、いつまでこうしていられるか分からないし。」
「弱気になるものじゃありませんよ。病の治癒には、気持ちも健やかに保つことが肝要なんです。」
「でも…」
「ヨウ太のためにもカエは元気でいなくてはなりません。いや、元気になれるはずですよ。」
先ほどまで勝気な少女だったのに、一転、瞳が不安げに揺れたり悲しそうに口元を歪めたり、普段の珊瑚では絶対見せない、コロコロと変わる幼げな表情の連続に、ことさら柔らかい声で語りかけてしまう。
「…やっぱり、恋人なんじゃないの?」
カエは、己に向けられる慈愛に満ちた法師の表情に、単なる聖職者としての慈悲以上の感情を見た。
それが、よく知りもしない貧相な娘ではなく、彼の目に映る「仲間」だという娘に注がれる感情であることも鋭敏に感じていた。
「…想像に任せます」
きまり悪げに外された視線が少し面白く、えいっと彼の腕に飛び込んだ。
「いいじゃん。今だけだから。あたしは法師様が好きだし、法師様もわたし(、、、)が好きでしょ?」
押し付けられる柔らかな肢体に、頬がじんわり熱くなった気がした。
この娘は、今の自分の体がどれだけ魅惑的か分かっているのだろうか。
「…やめなさい」
ひき剥がそうと肩に手を当てると、娘は不適な笑みを浮かべ、その手を掴み、あろうことか己の胸元に導いた。
息を呑み、軽く固まった法師を見つめる。
「恋人同士ってこういうことするんじゃないの?」
「…やってみたいのか」
「さあ?」
何だそれは、と思うも、蠱惑的な表情で重く柔らかいそれを押し付けられた掌は、吸い寄せられたようで自らの意志では離れることができない。
背徳的な気持ちになるも、もう片方の手は彼女の背に回りしっかりと己のほうに抱き寄せてしまう。
もう、唇が触れるのではないかという瞬間に、襖が激しく開いた。


「信っじらんない。」
珊瑚が、弥勒の蛮行に、鼻息荒く怒り散らしている。
だが、細い体と幼い声音では常の迫力も半減している。
彼女から喰らった平手打ちも威力が全くなく、いつもなら手形の浮かぶ頬は今日は無傷だ。
重だるい体をようやく起こし、カエがいないことに気が付き、やっと探し当てたのに。何故か彼女は法師と抱き合っていた。
「年端もいかない娘になんてことしてんのさ!」
どうやら珊瑚はまた法師が若い娘にちょっかいをかけた、という認識らしい。
「しかし体はお前のものですが…」
反論を試みるとギロリと睨まれた。
「ごめん珊瑚。法師様と付き合うことになったの。」
助け舟のつもりか、カエの挟んだ台詞では火に油を注ぐだけだった。
「はあ!?ごほっ」
驚きすぎて噎せてしまった珊瑚に寄ろうとするも、カエに阻まれた。
法師はもたれかかってくるカエ、つまり珊瑚の体を拒めずにため息をついた。
「…とにかく今はカエの体なのですから、お前は養生していなさい。」
「なっ」
「地主様とかごめ様たちに事情を話してきます。しばらく厄介になる可能性もありますから、解決の手立てを探す者と、この家に奉仕する者で分かれましょう。」
立ち上がり部屋を出ていく弥勒に、カエが嬉しそうについていく。
弥勒は早急に入れ替わりをどうにかせねばと動いたのだが、珊瑚は突き放されたように感じた。
間もなくかごめがやってきて、あれこれと世話を焼いてくれた。
どうやら犬夜叉が家の力仕事を手伝うことで折り合いがついたらしい。
「喚いてる犬夜叉説得するの大変だったんだから!」と笑うかごめの声を聴きながら、珊瑚はいつの間にか眠ってしまっていた。


「ほーしさま」
部屋を出てから、法師はカエと目も合わせず、ひたすら考え込むように歩いている。
「ねぇ!」
引き留めようと後ろから袈裟を掴んだが、振り返った法師の視線は温もりのあるものではなかった。
「…冷たい」
「…」
「珊瑚に対する態度と全く違う!」
「そんなことはありません。」
「…恋ってつまんない」
その台詞に少女の可愛らしい夢を壊してしまっている大人気のない己の態度を少々反省した。
何より、珊瑚の顔と声で寂しそうに告げられては、胸がツキリと痛んで仕方がない。
「…悪かった」
口調をやわらげ、そっと片手を差し出す。
意味が分からず首をかしげるカエの手を取ると、そのまま歩き出した。
(そういえば、珊瑚の手を握って歩いたことなどなかったな…)
己が握っている女の手は、珊瑚の手でありながらそうではない。
珊瑚の手が細く柔らかで美しい一方、傷だらけであることも知っている。
しかしその手を握って歩く日常の温かさは知らない。
彼女の己への思いは気づいているつもりだ。
募る罪悪感が口の中を苦くさせる。
「へへ。」
「…どうした」
「やっぱり法師様だいすき!」
聞きたかった台詞が、聞きたかった声で紡がれ、一瞬舞い上がってしまう。
だが、真実彼女の心から紡がれることはないだろうと思い当たり、自業自得かとため息を漏らさざるを得なかった。

弥勒とカエは、市に来ていた。
(こんなとこで道草食ってる場合ではないのだが。)
とにかく一本松のある山頂に戻ってみようと足を向けたのだが、途中カエが市に行ってみたいと愚図った。
一生いけないかも!と言われては、本来の病弱な少女の姿が浮かんだ法師は、無下に却下できる薄情な人間ではなかった。
それに上目遣いで強請る姿形は退治屋の娘なのだ。滅多にないおねだり姿に心が動いたというのが本音かもしれない。
「ほーしさま!これ見て!」
小間物屋を見ていたカエが大きな声で己を呼んでいる。
そんな無邪気な姿がただ眩しい。
「可愛くない!?」
目の覚めるような鮮やかな紅色の簪を耳元に差し、見せてくる。
法師は思わず目を瞠った。
それは珊瑚の差す目元の紅とも調和し、白い肌とはっきりした顔立ちによく似合っている。
「別嬪に磨きがかかるな〜。こちらはお嬢さんの好い人かい?」
金回りの良さそうな法師に向かって商売用の笑みを浮かべる物売りの言葉に、カエが元気に答える。
「そう!恋人なの!」
それは法師の胸のどこかにチクリと針が刺さるような痛みをもたらした。
珊瑚が屈託なく笑いながら、二人の関係をこんな風に言ってくれる日が来たら。
己もそれに、何のしがらみもなく頷けたら。
決して訪れることのない幻想に思いを馳せていると、カエが横から袖を引っ張る。
「法師様…買って?」
「…カエ」
金品を強請るのは流石に虫が良すぎはしないか。
窘めようとするも、あまりにも似合うその簪と、押し付けられる柔らかな肢体に根負けしてしまった。
「分かりましたよ。買ってあげます。」
「やったー!」
「しかし、此方にしておきなさい。」
「えー!地味じゃん!」
そう言って紅色の簪を取り上げ、淡い黄色の小さな花がいくつも垂れたものと差し替える。
たしかに色合いや大きさは地味だが、動くたびに揺れる花飾りは愛らしい。
「大人っぽい顔立ちのお嬢さんにはさっきのもののほうが似合うんじゃ?」
店主も不思議そうに尋ねる。
「いや、この娘にはこちらのほうが似合うはずですよ。」
春風のように微笑む法師に、カエは不承不承頷いた。


それから、結局手がかりもないまま数日が過ぎてしまった。
その間、カエは法師にあらゆる我がままをぶつけ、法師もなんだかんだそれに付き合っている。
花を贈られてみたいと言われれば、手がかり探しとかこつけて雲母を飛ばして花を摘んできたり、甘味を食いたいと言われたときは近所の老婆から説法と引き換えに萩餅をもらってきたし、乞われて昼寝の枕に膝を貸してやったりもした。
(菓子に関しては、かごめに頼んだほうが飛び切り甘くて珍しいものをもらえると分かったため、その後強請らなくなった)
かごめから見ると、我がままな彼女に振り回される彼氏の滑稽な姿だ。
しかもいつもくっつけばいいなと願っている弥勒と珊瑚の、そんな恋人然とした様子に思わず頬が緩んでしまう。
一方、当の珊瑚はままならない体を抱え、もやもやとした思いを募らせていた。
姿は自分だろうが、自分ではないおなごと意中の男が戯れているようにしか感じない。
今にも折れそうな体に魂を宿していると、物理的な息苦しさから来る命の儚さを感じ、心まで折れそうだ。
カエのことは何とかしてやりたいが、この状況は釈然としない。
その場所は己のものだと、例え元に戻ろうと同じ振る舞いはできないと分かっていながらも心で叫んでいる。
だが珊瑚はその悔しさを糧に、己を鼓舞していた。
「ねえちゃん」
珊瑚が軽く咳込んでいると、ヨウ太が寄ってきた。
幼い彼はこの入れ替わり劇をあまり理解していない。
いつもと違う姉の様子にどこか不安げにしているだけだ。
「おくすりの時間だよ。」
「…ありがとう」
布団から体を起こそうとしたところを後から入ってきたかごめが支えてくれた。
「今日はヨウ太くんもすり潰すのを手伝ってくれたの。」
ね?と笑いかけられて、ヨウ太が照れた笑みを浮かべる。
いくつかの薬草と清水をすり潰したそれは、とても美味いとは言えず、かごめが口直しに甘い味のする液体を差し出してくれるが、さして必要は感じない。
良薬は口に苦しと言うし、そもそも腹に抱える苦さに比べればなんてことはないのだ。
「大丈夫?」
暗い思考が顔に出ていただろうか。ヨウ太が薬の入った椀を持つ、珊瑚の手に小さな手を添えて見上げてきた。
その可愛さに少し心がほぐれた珊瑚は、口元をわずかに緩め、その幼い子供を抱きしめた。
「大丈夫。ありがとね。」
あまりこういったことに慣れないヨウ太は一瞬目をぱちくりさせたものの、すぐに嬉しそうに抱き返してきた。
姉弟の微笑ましい姿に、かごめがにこりと笑みを浮かべた。
「あ、そういえば」
かごめが思い出したように声をあげ、背後をガサガサとあさる。
「はい」
「…これって」
手渡されたのは小さな花束だ。
淡い紫の小花が重なるように咲くその草本は、もともと水分が少なく、摘み取った後も色あせないことが知られているものだ。
ゆえに、「変わらない心」を象徴すると言われる。
「薬草と一緒に置いてたから、弥勒様からの差し入れじゃない?」
「えっ、薬草って法師様がとってきてるの?」
「知らなかったの?毎日摘みに行ってるじゃない。」
「毎日…」
時々雲母と不在になるとは思っていたが、カエに強請られて花を摘みに行ってるのではなかったのか。
カエが渡されていた色とりどりの華やかな花束と比べて、地味にも思えるが、その色合いと選ばれた花に、何か意味を見出した気がして、ほんのり頬を染めた。
「顔色よくなってきたね。」
かごめの何気ない言葉に、羞恥が襲ってきて、わずかに首を振った。
いっぱいいっぱいの珊瑚は、襖越しに紅白の着物を着た娘が、眉をひそめて立ち去ったことに気が付かなかった。


その夜珊瑚は、妙な胸騒ぎがして目が覚めた。
襖の隙間から漏れる月光が、かごめが活けてくれた紫の花を照らしている。
今日は体調もよく安眠できてもいいはずだが、月明かりのせいか、目が冴えてしまって眠れそうにない。
外の空気を吸おうか…か弱い体だから冷やすといけないか、などと考えつつ寝返りを打つと、そこに寝ていたはずの自分の体、すなわちカエの姿がなかった。
(…!)
行先は瞬時に思い当たった。彼の部屋にちょっかいをかけに行ったのだろう。
カエには前科がある。
しかし刻限が悪い。前回は早朝だったが、今はどうだ。
こんな静かで少しだけ蒸し暑い夜に、若い男女が二人きり。
女のほうは姿形は自分であることを思うと、赤くなればいいのか青くなればいいのか分からないが、いずれにせよ見過ごすわけにはいかない。
ヨウ太を起こさないようにゆっくり起き上がると、そっと抜け出した。


「お邪魔しまーす。」
さすがに時分を弁え、カエは控えめに声をかけて入室した。
「…。」
法師はこちらに背を向け横たわっている。眠っているのだろうか。
カエはそっと布団に潜り込み、しばし逡巡したのち背後から抱き着いた。
息を詰めて彼の様子を窺うも、反応はない。
しびれを切らし、ゆっくり袈裟の結び目に手を移した。
だがその瞬間、その手を勢いよく掴まれた。
「ひっ!」
「…いずれ来ると思ってましたよ」
心底呆れたような声をあげ、法師は起き上がった。
どうやら寝たふりだったらしい。
「そう?なら話は早いや。」
「あのね。」
居住まいを整え、明かりをつける動作を眺めていると、ねめつける視線とぶつかった。
「なに」
「戻りなさい。」
「やだ。」
「…カエ」
一等低い声が非難を示していた。
目を見あわせたままではいられず、視線を逸らして、続ける。
「だって。元に戻ってしまったら、男を知らないまま死んじゃうかもしれないじゃん。」
「どこでそんな言葉を覚えてくるんですか。子供のくせに。」
呆れを含んだ言い様に、カエの機嫌が降下する。
「子供じゃないよ。同い年の友達にはもう嫁いだ子もいたもん。」
カエは小柄なので、見かけ以上に幼く見える節がある。
「ともかく。おなごが軽々しくそんなこと言うもんじゃありません。しかも他人の体を差し出そうなんて。」
「…じゃ、元に戻ったとしても、そんな優しい瞳で見つめてくれる?」
上目遣いにちらりと見上げるも、眉をひそめられただけだった。
答えに窮しているところを見ると、図星だったか。
「やっぱり。」
「何です?」
「やっぱり法師様、珊瑚だからそんなに優しくするんだ。」
「…私はおなごには優しく、が信条ですから。カエが元に戻ったら、お前の病気の治癒に尽力しますよ。」
「そんなの治るか分からないじゃん。」
「気を確かに持てと…」
「病気の女の子のささやかな望みを叶えるのも、法師の務めじゃないの!?」
追い詰められたカエは、突然激高した。
そして、宥めようとする法師を無視し、激情のままに自分の帯を解いた。
そのまま目の前の男に思いっきり飛びつく。
重なろうとする唇に、流石にそれは不味かろうと、顔を避けた法師だったが、均衡を崩してしまった。
何とか仰向けに倒れることは免れたが、カエを膝の上に乗せることは許してしまった。
片手で自分の体重を、もう片手でカエの腰を支える形になっている。
はらり、と彼女の着物の襟もとがめくれる。
「何故、さらしを巻いていない」
目を逸らしながら法師は緊張気味に尋ねる。
「こういうことを想定して。」
しれっと返すカエの言葉に表情が険しくなる。
「ねぇ」
吐息のように囁かれる声と、頬に触れてくる妖しい指先は、本当に少女のものなのか。
その手の誘惑に抗えず、顔を正面に向けてしまった。
視界に入る妖艶な表情と惜しげもなく晒される柔肌は珊瑚のもので。
苦し気な表情が、どうしても弥勒を欲しいのだという気持ちを色濃く浮かべている。
それが、死を間際にした少女の切羽詰まった憧れから来るものだということを頭では理解しているが、目に映るのは、好いた娘の欲情した顔なのだ。
法師であるはずの青年は、頭にもやがかかったように、何も考えられなくなる。
心の奥底に眠らせている熱い感情が、月が浮かべる白い女体に、手を伸ばさせた。
女の上半身は、いつの間にかほぼむき出しになっていた。
法師はその裸の背を強く抱きしめる。
感触を確かめるようにゆっくり撫でさすると、すぐに指先に触れる傷跡に気が付いた。
途端、女の体を膝の上で反転させ、眼前に背中を持ってきた。
月明かりに照らされ、くっきりと浮かぶその傷跡にそっと唇を当てる。
「なっ…」
カエが困惑の声を上げたのと、襖がカタリと音を立てたのは同時だった。

珊瑚が彼の部屋にたどり着くと、案の定、部屋からカエの声がした。
すぐに踏み込むのは躊躇われて、息を詰めて、襖に耳を当てる。
感じられる雰囲気は、思っていたものより色めいていて、カエが単純に法師に悪戯を仕掛けに来たのではないことが分かった。
どうも、彼女は法師に迫っているらしい。
(何やってんの〜〜!?)
もちろん止めるべきだが、実は、今さら法師が珊瑚に無体な真似を働くとは思っていないので、そこまで心配はしていない。
だが、何かの拍子に体のどこかに触れてしまうことはあるかもしれない。
…例えば唇とか。
彼は何とも思わないだろうが、知らないところで奪われてしまうと考えたら、どうしようもなく胸が痛む。
涙さえ滲んできて、呼吸が苦しくなってきた珊瑚は、いい加減気配に気が付かれるだろうと、気づかれる前に踏み込んでしまおうと決意した。
「え…」
思い切って襖を開けると、まず女の嬌声が耳に入った。
ここ数日、慣れたものとは違う風に聞こえる自分の声に僅かに違和感を覚えていたのだが、それとも全く違う。
喘ぐ声に耳をふさぎたくなる羞恥を覚えながらも、遅れてその妖しげな状況を認識した。
半裸の「己」の背に、唇を寄せる男。その男が想い人で。
いったいこれは何だ。
男が背に顔を寄せたまま、視線だけ寄越したのが、ぼやけた視界に鮮明に映った。
その余りにも艶の乗った視線に、ついに珊瑚は立っていられなくなり、膝を折ってしまった。

ガタン

珊瑚がくずおれた拍子に大きな音が鳴った。
珊瑚が見ていることに気が付いたカエが、我に返り、決まり悪そうに法師から離れた。
あっさりと彼は拘束は解き、カエが困惑している間に、素早く着物を整えてやる。
「これくらいで満足しておきなさい。」
「…うん、ごめん。」
カエに向けた言葉は、己への戒めでもあったことに、法師は心の中で情けなくため息をついた。


**********


カエはぼんやり歩いていた。
後悔したくなくて、昨夜彼の部屋に忍び込んだわけだが、結局今は罪悪感に押しつぶされそうだ。
気が付けば、例の一本松の下に立っていた。
いつの間にこんなところまで来ていたのか。
「はぁ」
深いため息をつき、根元に腰かけようかと幹に手をかけると、反対側からカエの姿−すなわち珊瑚が顔を見せた。
「えーっと…」
昨夜の一件から気まずくてまともに顔を合わしていたなかった珊瑚と思いがけず遭遇し、カエは慌てる。
「何か戻れる手がかりはないかと思って」
しかし珊瑚は気にした風もなく気軽に答えてくれた。
「…やっぱり戻りたい…よね」
「そりゃあね。この身体じゃ仲間に迷惑をかけるし。」
「弱い体でごめん。」
「カエの体に文句があるんじゃないよ。これまで鍛錬してきた身体じゃないと、役に立たないから。」
「鍛錬?」
ふと、借り物の体を見おろす。
そう言われれば程よく筋肉のついた引き締まった体だ。それに傷だらけだった。
この娘は、いったい何者なのだろう。
そういえば自分のことに必死で、娘のことは知らないことが多いと、顔をあげて目前の相手を見つめる。
その視線に、カエの疑問を読み取った珊瑚は一言だけ返した。
「…目的のある旅だから。」
「そう。」
これ以上は踏み込んではならないのだろうか。
会話が途切れ、珊瑚は再び手がかりを探すために動き出した。
大木の松を離れ周囲を探索する。
珊瑚はずんずん進んでいくが、あまり端に行くのは危ない。その先は切り立った崖なのだ。
声をかけようかと、珊瑚の後を追う。
「ちょっと、あんまりそっちは…」
言いかけて、突風にあおられた。あまりの強風にたたらを踏み、あろうことか端のほうまで移動してしまったカエは、崖を踏み外してしまった。
「うわっ!!」
恐怖に歪んだ己の瞳に映ったのは、強い意志をもった、「自分」の顔だった。
(綺麗…私の顔とは思えない…)
そんなことを思い浮かべた瞬間に、カエは強い力で腕を引かれた。
「きゃっ」
カエは崖から落ちることなく、地面に転がった。
慌てて顔を上げると、カエを引き戻した反動で、体を中に投げ出された珊瑚が見えた。


一瞬世界が止まった。
「珊瑚!」
「ねえちゃん!」
目を見開き、何も声を発せずにいたカエの傍を何かが通った。
白い乗り物と、その上に人影。猫又と法師と弟だ。
猫又は崖にたどり着くと急停止し、その上の人物が驚いたような顔をしたあと、身を乗り出し手を伸ばした。
よく見ると、崖の端には小さな手が引っ掛かっている。
墨衣を着た男の腕がその手を絡めとった。
それを確認すると雲母は素早く、しかし慎重に浮遊し、カエの傍に着地した。
滑り降りるように、乗騎から降りた法師の腕には小柄な娘がおり、安堵の息をついた男がその娘の体を一瞬強く抱きしめたのをカエは見逃さなかった。
身をよじった珊瑚が、彼の腕の中からカエを見つめる。
「…大丈夫?」
「…あんたこそ。」
座り込んで動けないカエは弱々しい声で、返答した。
小さく頷いた珊瑚にのろのろとヨウ太が近づき、ぎゅっと抱き着いた。
「ねえちゃん死んじゃうかと思った〜」
「…ごめんね」
火が付いたように泣き出したヨウ太を、珊瑚が慈愛の目で見つめながら抱きしめてやる。
その様子にカエは愕然とした。
まるで、弟を他人にとられたような感覚に陥る。

―やめて!

「腰が抜けてしまったか?」
カエのもとにやってきた法師がひざまずき、顔を覗き込んだ。
呆然自失しているような様子が心配になった法師は、瞳孔を確認するため、顎をつかみ日光が入る角度に調整した。
鬱陶しそうに眉をひそめ視線をよこした表情に安心する。
一方それを見ていた珊瑚は、まるで口づけでもしそうな距離に、昨夜の記憶が重なり、息をのんだ。
これ以上、法師と女の艶やかな場面など一秒たりとも見ていたくない。

―やめろ!

声なき声で叫んだ二人の女の視線があわさった。
同じことを考えていた二人は、目を見合わせたまま強く祈っていた。

真実の居場所に帰りたい―と。

その瞬間、黒雲が急に立ち込め青白い筋が見えた。
周囲に何もない場所だ。当然のごとくその稲妻は一本松を直撃した。
地面に放電されたかに見えた雷撃は、呆気に取られていた彼らのほうに流れてくる。
逃げようと腰を上げる間もなく、その光は珊瑚とカエの二人の体だけを襲った。
「きゃあ!」
一瞬の出来事とは言え、強い電撃を受けた二人は気を失うも、直後に意識が戻った。
「大丈夫か!?」
上から険しい顔で様子を確認する法師を視界にとらえ、体をゆっくり起こす。
四肢に異常がないことを確認し、ほっと息をついた珊瑚は、はっとしてもう一度自分の体を見た。
反射的に顔をあげると、一足先に状態を理解したらしいカエと目が合った。
小柄で幼く見える少女の姿に戻ったカエは、口角をわずかに上げると、その唇に人差し指をそっと当てた。
彼女は徐に立ち上がると、猫又の名を呼び、ヨウ太と一緒にまたがると振り返った。
「カエの体が心配だ。ヨウ太と先に戻ってるから、法師様はカエとゆっくり帰って!」
カエはそう告げると、珊瑚らが返事をする前に去ってしまう。
去り際、片目を瞑って見せた彼女の思惑が分からず珊瑚は呆然としてしまった。
「ったく珊瑚の奴…」
隣でぼやく声が己の名を呼んだので、思わず振り返る。
「自分の体も心配しろってんだ…」
珍しく柄の悪い口調を使う法師の様子を見るに、元に戻ったことに気が付いていないようだ。
(もしかして、気が付くまで内緒にしようって魂胆なのか…?)
先ほどのカエの悪戯っぽい笑みを思い出し、珊瑚は困惑する。
すると、法師は徐に袈裟を解くと彼女の頭に放り投げた。
「珊瑚の体もあまり冷やしたくない。被っていてくれ。」
淡々とした態度だが、自分への配慮が嬉しくないはずがない。
瞬時に逸りだした鼓動を抑えるように袈裟を握りしめる。
だが、雷鳴はあの一度きりだったとはいえ、雨雲は薄く広がりしとしとと細い雨を降らせ続けている。
このままでは法師のほうも濡れてしまう。
こんなときカエならどんな行動をとるのだろうか。
「…入れてあげてもいいよ」
少し迷った末、袈裟を広げながら告げた台詞は、カエであったらもっと軽口になっただろう。
しかし予想以上に小さくなってしまった声と、わずかに染まった頬では、その言葉の持つ意味が変わってしまう。
案の定、法師は固まってしまった。
だがそれも束の間、「可愛い態度も取れるんですねえ」と嫌味を言いながら袈裟を奪い取り、二人を覆った。
腰を抱き込むように彼の腕が回され、それに促されて歩き出す。
いつの間に二人はこんなに親密になっていたのだろうか。
嬉しさと恥ずかしさと心配と。
いくつかの感情がごちゃ混ぜになり、混乱し始めた珊瑚の視界が急に明るくなった。
「止んだようだな。通り雨だったようだ。」
二人を覆っていた袈裟を法師が外し、眼下の景色に目をやった。
「ほう…これは見事な。」
重くなり始めた稲穂についた雨水の雫が、太陽光を反射しキラキラと輝いている。
そして雨上がりの棚田にかかる虹は大小二つだった。
「先日は流れる星が願いを叶えたが、今日は昼間の星が願いを叶えてくれたわけだ。」
「え?」
「さ、帰りますよ。カエ?」
何かひとりごちた弥勒が、意味ありげに差し出してきた手を、少し迷ったが素直にとった。
美しい眺望のなか、穏やかに二人歩ける時間は、とても幸せに感じた。


「遅かったね。」
カエの含みのある言葉に珊瑚は頬を赤らめる。
珊瑚たちが屋敷に戻ると、仲間たちは旅支度を終え、軒先で家主に別れの挨拶をしていた。
「お帰りなさい!珊瑚ちゃん、元に戻ってよかったね!」
「え、あ、え…?」
すでにカエが顛末を話したらしいことに、彼女の意図が見えず困惑してしまう。
かごめの視線が繋がれたままの手元に行ったことに気が付き、珊瑚は慌ててそれを離そうとする。
しかし、彼の法師は強く握ったまま、己に視線をよこした。
珊瑚がカエとして振る舞った行動を、彼はどう思っただろうか。
「これは、違うの…えーと?」
法師とかごめを見比べながら、言い訳をしようとするも言葉が出てこない。
「元に戻ったことは分かっていましたよ。」
珊瑚の混乱を十分に楽しんだ後、法師はしれっと言った。
「分かっていて、手を繋いで、腰を抱いて歩いていたんですよ。」
ことさらゆっくりと告げるその言葉に、からかわれたことを知った珊瑚は、思いっきり平手打ちをかました。
「やっぱり、これくらい力が入らないとね。」
「同感ですな。」
ふざけた感想を述べられ、冷ややかな目線を返す。
いい雰囲気だったのに結局お決まりの展開になってしまい、かごめは苦笑するしかなかった。
「おい、行くぞ!」
犬夜叉の苛ついた声に促され、弥勒と珊瑚も慌てて家主に頭を下げた。
「犬夜叉、先行ってて。この子らを家まで送るから。」

犬夜叉たちを見送り、変化させようと猫又の名を呼んだ珊瑚をカエ本人が制止した。
「どうしたの?」
「自分で歩けるから大丈夫。実は、この身体に戻ってから信じられないくらい調子が良くて。」
そう言われると咳などもしていないし、声量も張っているし、随分顔色もいい。
首をかしげる珊瑚の横で、残っていた法師がおかしそうに笑った。
「適切な薬草を施せたのもありますが何より…珊瑚が根性で体を酷使しているうちに体力が付いたのでしょう。」
「なっ」
馬鹿にしたような台詞に珊瑚が文句を言おうとするが、カエが喜びを孕んだ驚き顔を見せたので、肘で小突くにとどめた。
「そっか…ありがとう、珊瑚。法師様も。」
「それから地主殿が働き手を探しているというので口添えしておきました。食事と薬の面倒も見てくれるそうですから、治療しながら適度に体を動かせます。僅かでしょうがお給金をもらって好きなことをしたらいい。」
「…何でそこまで!」
「言ったでしょう。おなごには優しくが私の信条だって。」
地主とは言えそこまで裕福ではない。二人を養うための金策に、法師はあの手この手を尽くしたはずだ。
彼女らが気に病まないように軽く言って見せる法師の態度に、内心感心していた珊瑚がとあることを思い出した。
「あ、そういえば。これ…」
そう言いながら懐をあさる。
出てきたのは、黄色の小花が散った簪。
「あっ、これは…」
気まずそうにチラリと法師に視線をやったので、彼が買い与えたものなのだろう。
こういった装飾品の類はもらったことがない…もちろんもらう義理もないのだが、何だかモヤモヤしてしまう。
珊瑚が複雑な表情を浮かべたので、カエは慌てて珊瑚の手ごと簪を押し返した。
「美人の姿になれたから着飾りたくなっただけ!だからこれは珊瑚にあげる!」
「いや、これは、お前に買ってやったものですから。」
それまで静観していた法師が、珊瑚の手に握られていた簪を取り上げ、カエの耳もとに挿してやった。
「ねえちゃん可愛い!」
珊瑚に申し訳なく思いつつも、ヨウ太の賛辞にどんな姿か気になり、思わず水たまりを覗き込む。
はっきり映っているわけではないが、確かに顔回りを揺れる黄色い花は、カエの元来の性格の明るさと、これからの未来を象徴しているように見えて、カエは小さく微笑んだ。
「お前にはこちらのほうが似合うと言ったでしょう。」
「うん!」
余りにも元気な返事に、珊瑚も苦笑を浮かべる。
「そういえば法師様。」
何ですか、と向き直った法師に向けるのは、飛び切りのしたり顔。
「元に戻ったら、胸のドキドキもなくなっちゃった。やっぱりあれは、珊瑚のドキドキだったんだね!」
びしっと珊瑚の胸元に指をあてると、ヨウ太の手を引き「じゃあね!」と山を駆け上っていった。


弥勒は、目の前に座る娘の後ろ姿を見つめていた。
赤くなった顔を見られたくないのだろう、俯いたままでいるが耳もとが丸見えなので意味がない。
思えばここ数日、この娘の見たことない表情も見たし、聞いたことない台詞も聞いた。
どれも珊瑚のものであって、そうではないのだが。
ふと彼の視線が姿勢のよい背中に移った。
思いがけず触れてしまった肌の感触や、悲しい傷跡は本物だと思うと居たたまれない。
あの夜のカエの反応からするに、傷は完治とは言えず未だ疼くこともあるようだが、それを微塵も感じさせないのだ。
小さく息をつき、意を決したように法師は先ほどから手中に持て余していたものを取り出した。
そして、赤く染まる耳もとに後ろからすっと挿し込む。
「え、なに?」
思わず振り返った珊瑚の染まった頬と同色の簪が、彼女の艶やかさを引き立てているのを満足そうに見つめる。
「やはり…よく似合うな。」
その視線を追うように側頭部に触れた珊瑚が、法師が自分にも簪を贈ってくれたことに気が付き、息を呑む。
この簪に、その優しい視線にどんな意味が含まれているのだろうか。
珊瑚が再び俯いてしまうと、ややあって雲母が降下を始めた。犬夜叉たちに合流するのだ。
すると背後から簪が引き抜かれる気配。
何事かと肩を上げると、耳元で囁かれた。
「ほかの誰にも見せたくないので、この簪は私の前でだけつけてください。」
そしてそのまま胸元の合わせにその簪を突っ込まれ、絶句しているうちに雲母は音もなく着地した。

「あれ、珊瑚ちゃん顔真っ赤。」
「弥勒に何かされたのか?」
かごめと七宝に揶揄されるも、茫然としてしまい何も反論できない。
そんな様子を見てかごめが微笑む。
「本当によかったね、元に戻れて。」
「…うん。」
いくら人を羨んでも仕方がない。
辛い旅路ではあるけれど、己に与えられたもので精一杯頑張っていれば、ちょっとはいいこともあるのだろうか。
珊瑚は胸元を軽く抑えその固い感触を確かめる。
実はそこには、「色褪せない心」を冠した紫の花弁も、押し花となり仕舞われている。
鮮やかな紅と、柔らかな紫。
二つの宝物を抱えた珊瑚は、ぬかるんだあぜ道を力強く踏みしめた。








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