「いい香り…」
広い庭に咲く黄色く可愛らしい花々に目を向け、珊瑚はうっとりと呟いた。



銀木犀の馨り



隅々まで手入れされたその庭園は秋を迎え、色めき立つような色彩を持ってして客人を感嘆させていた。
たまたま旅の道中一泊を求めた一行の娘―珊瑚もその客人の一人である。
「これは…見事ですな。庭中に金木犀が咲き乱れている」
優美な庭を眺め、廊下に立ち尽くしていた珊瑚の隣に法師がそっと並んだ。
その身に纏う優雅な雰囲気と墨衣は眩しいような橙と対照的でありながら、そのコントラストは非常に美しく映えているように思われた。

が、そのセリフに娘はひっかかった。
「…別に、乱れてはいないでしょ?まだ、咲き始めだ」
初秋の清々しい空気に浸っていた珊瑚は、 法師の適当な相槌によってそれを邪魔されたような気がして彼をぎろっと睨み付けた。
「いや、確かにまだ咲き始めかもしれんが、何せ一面金木犀の樹が植わっているのだから…別によいだろう?」
対して法師はそんな細かい言葉尻に突っ込まれるとは思っていなかったので、柄にもなくたじたじになってしまった。
珊瑚は、はぁと小さくため息をついた。
「で、何かあたしに用?」
「は?いえ、用というほどのことは…」
「ふ〜ん」
「邪魔でしたか?」
「…邪魔って訳でもないけど…」
珊瑚は視線をそっと足元に向けると、そのまま静かに庭に下り立った。
「たまには、一人でなーんにも考えずに静かに時を過ごしてみようかな、って思ってたところだったから」
そう言ってくるっと振り返った姿は、艶やかな橙を背景としながらも妙に色っぽくはならず、ただ愛らしさに拍車がかかっており思わず法師の頬も緩む。

だが浮かべられた笑顔はどこか寂しげであり、作り笑顔一つ繕えない珊瑚の不器用さを感じさせた。
しかし、弥勒はそれには気づかぬふりで柔らかに笑って返事をよこした。
「はぁ、なるほど。それで雲母も見当たらなかったわけですね。」
「うん、そう。部屋に置いてきちゃった。今頃七宝と遊んでる…かな?」
「まぁ、一人というのもよいが…たまには、二人きりというのはどうですか?」
随分ゆったりとした口調で告げ、ゆったりとした動きを見せていたのに、はっと気づけば弥勒は目の前で邪気のない笑顔を浮かべていた。
「…!」
珊瑚は思わず息を呑む。
「さ、せっかくですからこの芳しい香りを堪能しましょう。」
「ちょ、ちょっと…!」
弥勒は珊瑚の返事を聞かずやで、歩き出した。
仕方なく珊瑚も後に続く。

「…それにしてもこれだけ咲いていると、甘すぎて香りに酔ってしまいそうだな…」
散歩を初めて僅かしか経たぬが、法師はいささか青ざめた顔で呟いた。
一方珊瑚はケロッとしており、むしろ微笑みをたたえている。
「そう?とてもいい香りだと思うけど。こんな甘い香りなんてさ、かごめちゃんの国の菓子くらいでしかかげないよね。」
と、幸せそうにその小さな花々に顔を寄せた。
甘い香りを好むそのおなごらしい様子に弥勒は口元を緩めた。
「な、何さ…」
自分の取った行動が子供っぽいと思われたと感じた珊瑚は軽く頬を染めた。
その仕草がますます弥勒の笑みを深くするのだが。

「そういえば、珊瑚。金木犀の花言葉、知ってますか?」
「花言葉?知らない…何?」
花々に囲まれたまま小首を傾げ、素直に訪ねてくる様は思わず抱きしめたくなるほど可愛らしい。
が、その気持ちをぐっとこらえて、かろうじて表情にも出さずそのまま続けた。
「この強い香りに対して、花は小さく控えめであるところから、『謙虚』とか『謙遜』などと言った花言葉があるそうです。」
「へぇ〜…法師様とは最も縁のない言葉だね」
「…失礼すぎませんか?」
がっくりと肩を落とす法師に珊瑚は悪戯っぽい視線を向けた。
しかし弥勒は一瞬にやりとすると、珊瑚以上に悪戯な視線を返す。
「確かに、私よりはお前のほうが金木犀にあっているかもしれませんね」
「え?」
「決してその艶やかさをひけらかすことなく、全く自らは主張せず控えめなのに、極上に甘い甘い香りを放っているのだから」
そうすらすらと語りながら珊瑚に迫る法師の視線は艶を帯び、あっという間に彼女の体を一本の金木犀の樹に押し付けてしまった。
「な、な、なにを…」
金木犀の香りよりも、抹香の香りが強く意識され、珊瑚の気が遠のきそうになったとき、
「冗談ですよ」
といつもの胡散臭い笑みを浮かべた法師が珊瑚を解放した。
「この馬鹿法師!」
珊瑚は涙目でばしっと法師の腕を叩いた。
「痛いですなあ」
「ふん!」
自業自得だ!という叫び声は、心の中だけで留めておく。

「でもまぁ、お前は本当に金木犀のようだ。」
「やめてよ」
またあれこれと誉めそやされても困る(どうせ口先だけで本当に思っているわけではないのだろうが)、と珊瑚は少しあたふたし始めた。
「金木犀には他にも『気高い人』という花言葉も持っているそうで。」
「べ、別に、あたしはそんな上品なもんじゃないよ」
そう返す珊瑚に、法師は何も言わずただ彼女を見つめていた。
(…本当に分かってないよな…自分の魅力を。これっぽちも。)
嘆息したい気持ちを微塵も出さず、ただ傍らの娘を切なげに見つめる。
いい加減落ち着かない娘が、辺りに視線をきょろきょろとさせていると、視界に白い花が入ってきた。
葉の形は微妙に異なっていたが、花の見た目は金木犀とほぼ同じである。
「あれ…白いのもあるんだ…?」
そっと呟いた珊瑚の視線をたどると、そこには白い花を咲かす一本の樹があった。
「あぁ…あれは銀木犀ですな」
「銀?銀もあるの?」
「ええ。もともと銀木犀のほうがあって、金木犀があとから出てきたと聞きますな。」
「へぇ…法師様、ほんと物知り。」
銀木犀に目を向けたまま、自然と出てきたのであろう珍しい己への褒め言葉を聞き、法師が目を見開いた。
しかしすぐ目元を緩め、続けた。
「銀木犀の雄の樹は大陸にしかないそうです。」
「…だから?」
どことなくにこにこしている法師に冷たい言葉を放った。
「ですから、ここいらの銀木犀が増える方法は挿し木、接ぎ木のみだそうです。何とも味気ないですなあ。」
「何の話だ!」
もうっとそっぽを向いて、珊瑚は銀木犀の方へ歩いていく。

「…あんまり匂いはないんだ…」
銀木犀の元までやってきた珊瑚がその小さな花弁に顔を寄せて呟く。
「そのようで。」
「法師様、銀木犀の花言葉も分かる?」
食い入るようにその白き花を見つめる珊瑚が尋ねた。
「ええ…金木犀と同じく『謙虚』などもありますが、『高潔』というのが印象的ですな。…それが何か?」
法師に質問の意を問われ、はっとした珊瑚は首を振って「何でもない」と答えた。
が、ちらとこちらを伺う珊瑚に法師は柔らかい笑みを浮かべ、何か言いたげな珊瑚を促した。
「…ちょっとさ」
「ん?」
「似てるなって…法師様に。」
「私?」
恥ずかしそうに此方を見つめる珊瑚に少し驚いたような顔を向けた。
「そ。最初は、法師様って金木犀っぽいなって思ったんだけど。決して派手ではないのに、華やかで、甘い香りで周りを翻弄するようなところがさ。」
法師は己に対して珊瑚がそんな印象を持っていたことに意外さを感じた。
「でも、白い花を見たら、こっちのほうが法師さまっぽいかなって。あっちの黄色は可愛い印象があるけど、この白いのはまさに高潔な印象を受ける。…なんだか触れてはいけないような潔癖さ。」
ほんとの法師様はこっちのような気がするの…
「…」
何も言葉を発しない弥勒に、珊瑚は気分を害しただろうかと不安になる。
「ご、ごめん。特に意味はないから…」
「…いや、驚いたな」
しょぼんと落ち込んだような様子の珊瑚に弥勒は慌てて返事をした。
「てっきりお前の中の私は悪い印象ばかりで形作られていると思っていましたよ」
おどけたように言う弥勒の瞳を珊瑚は覗き込む。
彼もその娘の瞳をしっかり見返して答えた。
「私の本質まで見てくれているようで嬉しく思うよ」
彼女の瞳に映る己の姿が揺れる。
「まあ、お前が言うほどそんな私は潔癖な人間ではありませんがね」
にっと笑う法師に珊瑚も緊張を解いた。
が、特別反論はしない。
これが彼の謙虚なところだと分かっているから。
本質を見ようとしても、本性を表してはくれないことも。
ちょっぴり寂しいけれど。

「珊瑚、知っていますか?」
そう問いかけ、法師は銀木犀の枝を一本失敬する。
それを彼女に手渡しながら、こう告げた。
「この銀木犀、他にも花言葉がありましてね…『初恋』とか『あなたの気を引く』というのもあるそうです。」
珊瑚は瞠目した。
「…受け取ってくれるか?」
あまりにも自然に爽やかに告げられ、思わずその枝を取ってしまう。
途端法師は破顔し、最高の笑顔を浮かべた。
「ありがとう」
と言葉を発した刹那、娘の額にそっと口づけた。
いよいよ狼狽し、固まってしまった娘の鼻に、金木犀の甘い香りが風に乗ってやってきた。
はっとした珊瑚が顔を上げると、慈愛に満ちた顔で弥勒が微笑んでいた。

先ほどまで僅かに抱いていた寂寥感は何だったのだろうか。
目を見開き、赤い顔で食い入るように眼前の男を見つめる。
この男は―夢を見せてくれる。
「風が少し冷たくなってきましたね。戻りましょうか。」
鮮やかに袈裟を翻し、元来た道をたどり始めた法師の背を、慌てて珊瑚は追った。
「…法師様ってすごい」
「ん?」
「法師様の言葉って、なんか凄いね。ちゃんと法師なんだ。」
見直しちゃった…と小さく呟く。
「一応、これでも御仏の代弁をしているつもりですので。ま、私なんてまだまだですが、珊瑚の元気が出たならそれ以上のことはありませんよ」
やはり見抜かれていたのだ―と思う。
「うん…」
二人そろって、廊下に上がる。
珊瑚はそっとその庭園を振り返って小さく微笑んだ。
「どうかしたか?」
声をかけられ、ふるふると首を振ると先で待つ法師と再び並んだ。

長い廊下を二人で歩く。
「なんだかあのままいたら、ずっと見とれていてしまいそうだったね。」
と言って、チラリと法師をうかがう。
(貴方に、なんてね)
そんな視線に気づいているのかいないのか、法師は泰然と歩いている。
その時、手前の障子ががらりと開いて小さな動物が飛び出してきた。
「みゃ〜」
「雲母!」
愛猫の姿を認め、娘は駆けていく。
その後ろ姿を見つめ、法師は切なげに呟いた。

「…いや、甘い香りに酔ってしまいそうだったよ…」

ほっと溜息をついた法師が庭園の方に目を向ける。
庭園の金木犀は、秋が深まるにつれ咲き乱れ、より甘い香りを放つことだろう。








あとがき
金木犀が好きで、いつかモチーフにしたいと思っていました。
銀木犀の存在と花言葉を知り、もう書くしかないと思い続けてどれだけ時が経ったことでしょう←
脳内に甘ったるい風を吹かせてくれれば幸いです。
この時代に金木犀がなかったとしても私は気にしません←


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