澪標


珊瑚は底冷えのする夜半に、寝床にて一人考え込んでいた。
彼の法師のことを思って。
(どう考えても、そう言うことだよね…)
哀しい気分にため息をつくも、そこから想像されるその先に思いをはせると、自然頬が熱くなる。
熱を冷ますように、体にかけていた冷たい着物を頭まで引き上げた。
―私の子を産んでくれんか
この口説き文句の指す意味、と時々出会う、過去彼とかかわりを持った女たち。
今ではなくなったが、ともに旅を始めた当初、大きな街に着くと必ず彼が向かっていた先
―郭
仲間が出来る前はそういうところに行くのは常のことでそれらはすべて彼が過去幾度もその行為を経験していることを指す。


「はぁ」
過去のことと分かっていても…哀しい。
―今は?
犬夜叉たちと旅を始めてから格段にそういうことは減っただろう。もしかしたら、まったくなかったのかもしれない。
自分が仲間になってからは、彼が花街へ消えようとしたとき、必ず止めていた。
そんな軽薄な気持ちじゃ奈落は倒せない― と、もっともらしい理由をつけて、本当は行ってほしくないだけだったのだが。
実は珊瑚が知らないだけで、夜寝静まっているうちに出て行って、朝を迎える前に帰ってきている―とかいう展開はないことを祈る。
告白を受けてからは、絶対ないと断言できる…と思う。 なんだかんだ言って、彼は自分を裏切らないと信じている。
(だけど…)
実際行動を起こさないだけで、気持ちの方はどうだろうか。 今日はやけに風が強い。
(人肌…恋しいだろうな。)
珊瑚だって分かっている。彼がただの助平心からのみで女を求めているのではないということを。



今日たどり着いたのは城下町。
大きな屋敷で、何とも都合よく本当にいた妖怪を退治し、寝床確保に成功したのである。
閑散としていて、部屋は余っているのだろう。 一人一部屋与えられた。
(寂しい…)
一人で眠るなどめったにない。
里にいたころは、いつも家族が一緒だったし、旅を始めてからもほとんど仲間が一緒だ。 かごめとも別々なんて珍しい。
珊瑚でも寂しいのだ。
彼など、吹き付ける風の音に怯えているのかもしれない。
となれば、やっぱり―
珊瑚は意を決し、立ちあがって部屋を後にした。


その角を曲がれば彼の休む部屋である。
彼のことだ、 眠れないと言うならば、縁に座りこみ虫の声音に耳をすましているやもしれない。
酒なぞ持ち出している可能性もある。
珊瑚はそーっと忍び寄り、静かに其処を曲がった。
が、予想とは反し、人影はなかった。
がっかりしたような、安堵したような気持ちで、小さく息をつくと、彼女は改めてその障子の前に立った。
今から己が成そうとしていることを思うと、自然動悸が速くなる。
全身が火照り、脳内を己の激しい心音が支配する。
立っているのが不思議なくらいになり、思わず障子に手をついた。
カタッ
彼女はしまった、と思った。
小さな音ではあったが気配に敏感な彼が気付かぬはずがないのだ。
起きていたなら不審がられるだろうし、寝ていたのなら起こしてしまっただろう。
珊瑚はきゅっと目を瞑ったが、何の音沙汰もない。 様子を伺っているのだろうか?
いや…もしかして

―いない?

こんな風の強い夜に
寂しい夜に。
どこへ?ドコヘ?まさか?
珊瑚は不安と怒りと良く分からない感情に任せ思わず大きな音を立てて障子を開いた。
パーン
「っ…寝てる?」
寒々しい布団がぽつねんと残っている様を想像していた珊瑚は、そこに確かに彼が存在し、穏やかに眠っているのを認め、安心からへなへなと座り込んだ。
しかしすかさず背後の障子を閉め、冷気と風音の侵入を阻んだ。
珊瑚は彼の元へにじり寄り、その寝顔を見下ろす。
今宵は満月。夜半とはいえ、月光により端正な顔がよく見えた。
「本当に、寝てるの?」
珊瑚は自分にしか聞こえないようなかすれた声で呟いた。
俄かに信じがたい。外は強風だということを差し置いても、人がこの距離にいて目覚めないなんて。
相当疲れていたのだろうか?
珊瑚は改めてその顔を見る。 無防備な顔は実にあどけない。


そんな彼の元に己は何をしに来たのだっただろうか。
許しがたい罪を犯しているような気持ちになり、彼女は俯いた。
そして、彼女は気づいてしまった。
こうして己が俯いているのは恥よりも大部分が落胆に起因しているのだと。
(あたしってば、何考えてるの)
珊瑚はふるふると首を振りもう一度その整った顔をちらと見やる。
(ちゃんと眠れているじゃないか)
彼は賢く強かだ。
寂しいとか、恐ろしいとかそのような感情に押し潰されるよりも、常より安全で快適な環境に在る今夜は十分に休息をとることが最優先だと実行できるのだ。
「はぁ」
珊瑚は小さくため息をついた。
(馬鹿みたい…法師さまの役に立ちたいなんて言って)
広い部屋に一人にされるのが怖かったのは私。
(帰らなきゃ)
だが足が動かない。
離れたくない。
この寝顔を見ていたい。
(もうちょっとだけ…)
弥勒の横でぺたりと座りこんでいた珊瑚だったが、もっと顔をよく見ようと彼の横に自身を横たえた。
彼は横向きで寝ていたため、珊瑚と顔を向き合わせる形となった。
彼女は遠慮なくグイッと顔を近づける。 少し動けば触れてしまいそうな距離だ。
正面からとらえたその少年のような顔に、緊張の糸がほどけたのか珊瑚はいつの間にか眠っていた。


彼女の寝息が聞こえ始めたころ、眼前の男の目がゆっくりと開いた。
(さて…)
その小さな寝息すら弥勒の顔にかかっている。
(一体、これはどういうことだ?)
部屋の前で珊瑚の気配を感じたとき、眠れなかったのを悟られぬように息をひそめてたぬき寝入りを決め込んだ。
厠にでも行くのだろうかと思ったが、珊瑚は大きな音を立てて己の寝所に入ってきた。 いよいよ弥勒は狼狽した。
自分の寝顔を見つめる視線が痛い。 珊瑚は寝ぼけているのだろうか。
途中ため息が聞こえ、弥勒は不審に思った。
何かを期待していたような吐息。
一体何を?
夜半に男の眠る部屋に一人で侵入してきて期待することとは―?
(…え!?珊瑚!?え?まさか、え?)
いやいやまさかな、と脳内で自問自答を繰り返している弥勒だが、今回は珍しく弥勒の予想もとい願望が当たっているのである。
雄叫びをあげそうになったとき、目の前が翳った。 やけに吐息が近い。
(本気か!?珊瑚本気なのか!!??)
弥勒が表面は上穏やかに眠っているが、その内実パニック状態に陥っていたころ、掛かる吐息が寝息に変わった―


ゆっくりと上半身を起こし、今度は弥勒が珊瑚を見下ろす。
「やはり寝ぼけていたか…」
弥勒は横たわる彼女の肢体の下に手を差し入れ抱えた。
珊瑚を部屋に運ぶため、持ち上げようとしたところで、ハッと彼女の目が開いた。
「法師さま!何してんのさ!」
「それはこちらの科白です。おまえこそ人の寝床で何してるんですか」
「それは…」
「寝ぼけていたんでしょう?そんなに疲れているのなら、ちゃんと自分の部屋で眠りなさい。」
そういって、立ち上がろうとする法師の腕を珊瑚が掴んだ。
「寝ぼけてない。大丈夫だから下ろして。」
意外にもしっかりとした珊瑚をしばらく見つめていた弥勒だったが、彼女に従った。
「寝ぼけていなくて、私の部屋に来たのか?こんな夜中に来るなんて用事は一つしか思いつかんのだが」
そう言ってにやりと笑う法師に、いつもなら『馬鹿!』といって抵抗するはずの珊瑚が、今宵は頬を染めて俯いてしまっている。


「珊瑚…?」
「…法師さま」
「はい?」
珊瑚は上目遣いで弥勒を見やる。
「眠い?」
「眠いと言えば眠いが。お前が何か用があるなら付き合いますよ。」
「用ってほどでもないんだ…ただ、法師さまが心配で」
「心配?なぜ?」
「だってこんな広い部屋で一人で…」
「…ははは…子供じゃあるまいし。さてはお前、私が恋しくなったんだな?」
一瞬間があったが、弥勒はすぐに悪戯っぽい瞳を珊瑚に向ける。
「法師さまは?人恋しくなかったの?…風、強いの平気なの?」
珊瑚は顔をぐっと上げ、弥勒の目元は真剣味を帯びた。
しかし、瞬時に悪戯な瞳に戻る。
「珊瑚ならいつでも恋しいですよ?」
「…そうじゃない。こんな夜、法師さまには温もりが必要だ。」
「珊瑚?」
弥勒は珊瑚の様子が尋常ではないことに気づく。 固い決意に満ちた瞳。
「もしやお前…?」
「あたし、法師さまを暖めてあげたい。寂しさを埋めてあげたい。風の音、聞こえないようにしてあげたい」
珊瑚はそこまでまくしたてるように言って再び顔を俯かせた。


「珊瑚…」
「…」
「…震えてるぞ」
珊瑚ははっとして自分の両腕を抱き込むようにつかむ。
「…」
「お前を無理矢理わがものにするほど飢えてはいませんがね」
「…眠れなかったんだろ?」
「…いいえ、ちゃんと眠っていましたよ。お前どうせ人の寝顔を見ていたんだろう」
ばれていないはずだ。 少なくとも、起きている気配は完璧に消していた。
「誤魔化さないで。本当に寝てたなら、目が覚めてあたしが目の前にいたら、ふつうもっと驚くだろう?」
「…それだけか?」
「それだけで十分だ。」
そう決めつけて己を睨む珊瑚の瞳を見つめていたが、ややあって法師は嘆息した。
「…それで。お前、私に身を捧げようと?」
「身を捧げるなんて…そんな大層なもんじゃないけど」
「大層だろう!おなごがそうやすやすと身体を許すんじゃない!」
「…法師さまに説得力があると思う?」
「それとこれとは話が別です。」
「大体、よその男ならともかく、何で法師さまに許したら駄目なのさ!」
これではまるで触れてほしいと言っているようなものだが、ここまで来ては引き下がれない。
「…本心ではないことが自分で分からんのか?」
「どういう意味さ」
珊瑚は目の前の法師を怪訝な目で見る。
「本当は怖いんだろう?強がるな。いやがる女をいたぶる趣味などない。」
弥勒の威圧的なセリフに珊瑚は口を噤んだが、ややあってぼそりと呟いた。
「…それは怖いよ。初めてだもの」
「そうだろう?」
「怖いけど、それでも…」
「…」
「それでも、それ以上に、法師さまの役に立ちたい!これが本心だよ!!」
「珊瑚…」


しばらく見つめあっていた二人だが、法師に何の動きもないことを悟ると、珊瑚は諦めたような哀しそうなため息をついた。
法師には間違いなく癒しが必要だ。
その常套手段が女の肌だった。
しかし、自分と婚約した今ではよその女の肌を求められるはずがない。
ならば、ならば自分が―と思うのは至極当然であり、むしろ『ならば』という条件ではなく婚約したのだから自分が、と順当に続いてしかるべきである。
それなのに、彼が自分を求めないということはもはや理由はただ一つ。
「あたしじゃ…役不足、か…」
「!」
法師は驚いたように珊瑚を見下ろすと、しょんぼりという様子の彼女が視界に入る。 暫く見つめたのち無表情につぶやいた。
「あまり俺を見くびるなよ」
「え?」
彼が何か声を発したと思った刹那、珊瑚は弥勒の腕の中にいた。
「法師さま?」
彼の表情を確認しようにも、自分を閉じ込めた腕はピクリとも動かない。
「何?なんて言ったの?」
「私は風ごときに負けない」
少し緩んだ腕の中で珊瑚は顔を上げた。
「でも…寂しかったんだろ?」
「その寂しさを埋めるためにお前に縋ってしまったらその時点で私は負けだ」
「そんなことな…」
「珊瑚、おまえが大層ではないと言った行為で子が出来ると分かっているのか。お前に呪いを持つ子など産ませるわけにはいかん。」
風穴のある手で触れたくないのは、もちろん子供が出来る危険性のためだけではない。
珊瑚を汚す行為である気がしてならないのだ。
「分かってるに決まってるじゃない。」
「…」
「もし呪いを持つ子が生まれたって、奈落を倒せば法師さまも子供の呪いも消える。」
「…倒せねば、子供も母親も辛い思いをする」
「必ず倒す。それに、風穴があっても自分の子どもだもの。―呪いごと愛す。」
燃え上がるようなその意志の強い瞳に弥勒は射抜かれた。
「!」
―呪いごと愛す
彼女の思いが彼女の声で脳内を駆け巡る。
呪いを持つ子を―己をまるごとすっぽり愛してくれると言うのか。


「…まったく。珊瑚には敵いません。」
ふーと諦めたような溜息をつく。
「じゃ、じゃあ?」
「…お前、したいのか?」
「そんな言い方!」
慌て出した彼女を微笑ましげに見つめる。
「何も、肌を合わせるだけが温め方ではないんですから。」
「?」
キョトンとする彼女を抱きしめたまま、法師は布団に横たわった。
「このまま朝まで腕の中にいてくれますか?」
「…このまま?」
「そう、このまま。」
「…眠れそう?」
「ああ。暖かい。」


暫くお互いの心音に耳を澄ませていたが、珊瑚が期待をはらんだ声を発する。
「あの、さ」
「はい」
「他の女の人ともこんな風に眠ってたの?」
「…はい?」
「だ、だってその…それだけが暖めあう方法じゃないってさっき…」
ただ一緒に眠るだけ。
お互いの肌を求めるのではなく、言葉通り温度を分けてもらうだけの、軽度の逢瀬が彼の女関係のほとんどを占めていたらいいのに。
が、彼の答えは至極簡単に珊瑚の期待を破る。
「ああ。いや、他のおなごとは常に一線を…」
「…」
「ち、違うんですよ、珊瑚?珊瑚だから肌を合わせずとも満足できるんです」
ともにいるだけで幸福感に満ちる方が、肌を合わせて刹那の温もりを求める行為よりも上位にあると、珊瑚は気づかない。
「…分かってるよ。子供扱いしてるんだろ?」
拗ねたような口調になる珊瑚。
「なぜそうなるんですか?」
「だってあたしが男慣れした大人の女だったら法師さま、このまま眠るなんて絶対ないもの」
「…」
「!きゃあ!」
珊瑚は突如悲鳴を上げ、彼から少し距離を置いた。
いましがた彼の熱い舌を感じた首筋に手を当てて。
「子供にはこんなことしませんが?」
不機嫌そうな弥勒が低音で言う。
珊瑚は潤んだ瞳で弥勒を見ていたが、少し瞳を伏せて告げた。
「…あの、法師さまが正解、みたい」
「正解?何がですか」
「やっぱり、本心は、怖い…かも…」
今度は弥勒が拗ねた口調になる。
「私の役に立ちたいのが本心だと言ったのに。」
「それは、本心だよ。でもやっぱりまだ…」
男は恥じらう乙女に微笑を向け、少し離れていた距離を再び埋める。
「やはりお前はまだ子どもだ。」
「分かってるってば。…だって、法師さまの鼓動が聞こえるここが一番幸せだもの。」
そう言って、頬を胸に摺り寄せて来る娘が愛しい。


「まぁ、今宵は大収穫です。お前にその気があるということが分かったので。」
「もう…まだだって言ったのに」
「ええ。まだです。いずれ私が大人にしてあげます。」
ことさら「私が」を強調して言う弥勒に、彼女はふふふと笑った。
「あのね…法師さま…」
「はい」
「寂しい夜は、鼓動を聞かせてあげる…」
「え?」
「今夜…寂しかったのはあたしだったのかな…」
珊瑚の言葉には寝息が混じってきた。
「…今、すごく…幸せ…今度は…」
「…」
「次は…法師さまを安心させてあげるから…」
語尾の方は寝息に飲まれてほとんど言葉になっていなかったが。
「鼓動、か」
法師は腕の中で甘えるように眠る娘を見て悪戯っぽく呟いた。
「珊瑚の胸で眠れるのか。強風の日が楽しみだな。」
まもなく、法師も安眠に着いた。






あとがき
今回、珍しく心理描写を頑張ってみましたがあえなく撃沈orz
いくらなんでも珊瑚ちゃんから仕掛けるなんてそんな…
澪標=身を尽くし。ベタすぎる恥ずかしすぎる。。 本当に失礼いたしました!


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