桜花から桜色を抽出するのは存外難しい。
卓越した業を持った者だけが、真白な布地を、ピュアで若々しい色に染め上げられるという。


桜染め

弥勒は家主への報告もそこそこに、急ぎ屋敷に踏み入った。
彼の歩幅と速度からすれば、案内の下女の歩みは途方もなくのろまに感じた。
ほどなく旅の仲間たちの気配を察知した瞬間には下女を追い越してしまい、その下女は、振り返りもせず足早に去った法師の後ろ姿を、遠く見守ることとなった。


「おい、おっせーぞ」
いつも通りのぞんざいな口ぶりだが、犬夜叉の表情から微妙な焦りを感じ取った弥勒は眉根を寄せた。
彼の開けた戸からその部屋に滑り込んだ弥勒のほうを、奥で控えていたかごめが振り返った。
その表情は犬夜叉同様困惑しており、表情そのままの声で早口に告げる。
「弥勒様、どうしよう。珊瑚ちゃんの様子がなんだかおかしいの!」
その台詞から自分が心配していたような重傷を負ったというわけではなさそうで、その点では少し安堵したが、次いで、では何が?と不安が襲う。
かごめの傍らに敷かれた布団から、体を起こした娘の様子を窺った。
「ばんそうこう」なるものが数か所貼られているが、外傷はその程度で実際たいした怪我はないのだろう。
ぼんやりとこちらを見ていたその娘とようやく目を合わせると困惑の色が浮かんでいた。
落ち着かせるようにゆったりと微笑み、その娘の名を呼んでやる。
「珊瑚、体の具合はどうだ?怪我はひどくなさそうだが…気分はどうです?」
「えっと…体は大丈夫…です。あの…」
声音もはっきりしており、元気そうだがぎこちない口調に違和感はある。
彼女が当惑の表情のままかごめを見たので、自分もそれに倣った。
「あのね、弥勒様。驚かないで聞いてね。どうやら珊瑚ちゃん…私たちのこと分からない、みたいなの。」
「…は?」
慌てて再び視線をやった娘の顔はかごめの方を向いたままで、その目があわないことが生涯続くような気がして、弥勒の不安を大きく煽った。


**********


その日一行は、立ち寄った村で旅銭稼ぎにとある妖怪退治を請け負った。
村の裏山に棲息する大きなミミズクのような風体の彼の妖怪は、その不気味な鳴き声を聞いたものの魂を少しずつ喰らうという。
攻撃性はなく、夜行性で昼間は大人しく潜んでいるため、日の出ている間に狩りを行えば、村の男たちでも十分に駆除できるという程度だった。
だがいくら退治を行ってもいっかな数が減らない。
どこからともなく現れて村に降りてきては人々の精力をそいでいった。
若く体力のある者はすぐに回復するが、後遺症か記憶があやふやになっていることがある。
とはいえ日常生活を送るのにさして困ることもなかったので、根気強く駆除に向かうことでやり過ごしていた。
だが先日ついに死人が出てしまったのである。
もともと病を持ち、痴呆もあった老人が、ぼけて山に入り込み長いことその鳴き声を聞いていたらしい。
翌朝戻ってきたときには話す言葉もあいまいで、臥せったまま二度と目覚めることはなかったという。
悪条件が重なったとは言え、死人が出ては穏やかではいられない。
村を離れようと考えるものも現れ始め、村の重役たちがはてさて如何しようかと頭を悩ませていたところ折よく一行が通りがかったのである。


「そいういうやつはどこかに親玉がいて、手下に精気を集めさせてるって考えるのが妥当だね。」
「子が生み出され続けるから数が減らないというわけか」
「逆に言えば親玉さえやってしまえば自然消滅するだろうさ」
旅の法師と妖怪退治の専門家だという娘が真剣な表情で論議している。
村長を名乗った初老の男は、その奇妙な一行のやりとりを不安そうに見守っていた。
露出の多い衣装の女と妖怪らしき男と子供と猫の存在が不安の原因だが、主に論議を交わす二人はその道には通じていそうである。
奥の間に逗留してもらおうと算段をつけ、とりあえず礼を失しない程度のもてなしをしている。
「百聞は一見にしかず。とりあえず行ってみましょう。」
手慣れた様子であっという間に裏山に消えていった一行を唖然と見つめるしかなかった。


村長から聞いた通り葉の茂った高い樹を登ってみると、その洞にひっそりと眠るその妖怪を発見した。
ただのミミズクやフクロウでないと分かるのは、闇のように真っ黒な羽毛で覆われていることと額に目玉が一つだけという特徴があったからだ。
日の出ている刻限であるためか、その瞳はぴたりと閉じられている。
その姿と臭いを確認した犬夜叉がひょいっと飛び降りたのを確認すると、今度は珊瑚がその洞におもりをつけた縄を投げ入れた。
縄の先には臭い玉もつけている。
―パンッ
爆破音と臭いに驚いた妖鳥が洞を飛び出した。
珊瑚らの存在には気づいたようだが反撃してくることもなく逃げていく。
大きな一つ目は血の色をしていた。
その後を追いかけてみる。
しかしもともと弱い質なのか、途中で力尽きてしまった。

その後妖鳥を見つけては追いかけ途中で失う、ということを数回繰り返しているうちに日が暮れてしまった。
「まずいな、とりあえずこれ以上の被害を出さないために一度村に戻るか。」
法師が踵を返そうとするが珊瑚が口を挟み別の案を出した。
「分かった。法師様たちはそのまま戻って。これはこれで好都合だよ。親玉が動くかもしれないからあたしはそっちを探しに行く。」
手下たちが親玉のもとへ導いてくれるだろうというあてが外れてもやもやしていた珊瑚は、親玉本体が目覚めることが手っ取り早いと感じているらしい。
「だがしかし、手下でもあれだけの人が気分を害しているんだ。目覚めた親玉がどんな力をもっているか計り知れん。作戦を練り、明日出直した方がよいと思うが。」
「大丈夫、声さえ聞かなきゃいいんだろ。恐らく力自体は弱いはず。一発でしとめてやるから。雲母行くよ!」
制止も聞かず飛び出してしまった珊瑚に、ため息をつき、弥勒は素早く振り返った。
「すまんが、犬夜叉。珊瑚が無茶をせんように行ってくれ。」
「おう、かごめを頼む」
犬夜叉は心得たように後を追っていった。
「ああ。」
本当は自分がついていきたいところだが、敵の実力が読み切れない現状では、犬夜叉のほうが安心だと送り出した。


村に戻った弥勒とかごめは屋根裏などに潜む妖鳥を何匹か見つけた。
予想通りその退治は容易かった。
確かにその鳴き声を耳に入れると気分を害すが、修行を積んだ弥勒と破魔の力の強いかごめにはさしたる障りもない。
一通り退治を終えると先にかごめを村長宅に帰し、弥勒はその晩被害に遭った者の様子見に回った。
札や経で妖気を鎮めつつ、請求は村長に…などと考えていたところ、犬夜叉にくっついて行ったはずの七宝が走り寄って来た。
「どうした七宝」
「珊瑚がたいへんじゃ!うわ〜ん」
泣きつく七宝を思わず放り投げた。
背後で泣きわめく声が聞こえるが正直構ってなどいられない。
ちょうど夜明けのころだった。


************


「確かに親玉はやったんだな?」
「何度も言わせんじゃねー」
「間違いない!おらは犬夜叉が妖怪を鉄砕牙で切り裂くのを見たし、妖怪は粉々に砕け散ったんじゃ!」
「後片付けに山に入った村の人たちもあの鳥の死体がそこらに落ちてたって言ってたでしょ。妖怪の親玉を斃したからだわ。」
「珊瑚の記憶がないのは妖鳥の鳴き声を聞いたからだろう?しかもあの様子だと相当長時間。」
「鳴き声っつーかあれは悲鳴だ。断末魔っていうやつだな」
聞けば珊瑚の狙い通り、夜間になり動き出した親玉は、すぐに見つけ出せたのだという。
姿は手下と同様、漆黒の羽毛に大きな紅玉の一つ目。
ただその大きさは、熊ほどもあった。
「本当に気味の悪い恐ろしい声じゃったのう。まるで襲われた人々の恨みの声のような…。思い出すだけで震えてしまう。」
「何故おまえたちには何もないんだ」
弥勒が忌々しそうに睨みつけた。
「それは俺たちが妖怪だからだろう」
「犬夜叉は半妖じゃが」
うっせー、と小突きあいを始めた犬夜叉と七宝をしり目に弥勒の眉間のしわはますます深くなる。
「妖怪を倒しても失った記憶や魂は取り戻せんということか?」
「村長の奥さんだって記憶があやふやなままだって言うし…」
実は村長の妻も妖鳥の被害者の一人だった。
そういうわけで急ぎ解決策を模索していたこともある。
「しかし寝込んでいた奥方が起き上がったのでしょう?」
「体力は回復するけど、記憶は元には戻らないってことなのかしら…」
「そうじゃのう。症状の軽いものはもうすっかりピンピンしとると方々から村長に伝達があったのう。」
ちょこまかと動く七宝はこうした情報をよく仕入れてくる。
「やはり…行かせなければよかったな。油断はしないと、言っていたのに…」
再び眠ってしまった珊瑚を見つめながら、弥勒は切なげに呟いた。


************


珊瑚は生まれ育った里に帰りたがった。
どうやら奈落の奸計にはまり里が滅ぼされる前辺りまで記憶がなくなっているらしい。
今の状態で真実を告げるのはあまりに惨いだろうということで、ある妖怪退治の際に出会った我々の境遇に同情した珊瑚が、同行を申し出てくれたため一緒に旅をしているという設定をでっち上げた。
もちろんいつまでも隠し通せるものではないが、珊瑚が帰りたがっている里はないのだ。
とりあえずこの場にとどまらせなければならない。
だが珊瑚は記憶をなくしたことを存外あっさり納得した。
職業柄、こういった不慮の事態は起こりうることを理解していたからだ。
流石に己の身に降りかかり戸惑いは隠せていなかったが。


弥勒は月を見上げ、屋敷の縁側で考え込んでいた。
事情を察した村長が延泊を勧めてくれていた。
「あの…」
恐る恐る近づく娘の気配にはもちろん気づいていた。
「…どうかしました?」
安心させるようにゆっくりと振り返り笑みを向けると、素直な珊瑚はほっとしたように、だが慎重に彼の隣に腰かけた。
「あの…あの子に、かごめちゃんって子に聞いたんだ。その、右手の…」
「ああ」
ずいぶん直球な質問だな、と思い苦笑を浮かべる。
「あ、詳しく聞いたわけじゃないんだよ!右手に悲運を負ってるとだけ聞いたんだ。あとは直接聞いてって言われて」
「そうですか。」
「…あたしには言いたくないかな?」
泣き出しそうな顔でポツリと言う珊瑚に目を向けた。
「妖怪退治屋なのに雑魚に不覚をとって。あたし、信用ないかもしれないけど。」
「…そんなことはありませんよ。」
「でも、前は知っていたんでしょう?その右手のこと。もう情けない姿は晒さないから、ちゃんとみんなのこと知って役に立ちたい。」
何故そこまで…と思った弥勒の表情を読んだ珊瑚が静かに答える。
「事情は何も覚えちゃいないけど同行は自分で決めたことだったはず。里を出てまでついていきたい何かがあんたたちにはあったんだ。」
珊瑚を傷つけないためとは言え、でまかせの嘘を信じここまで真剣に向き合われては、流石の弥勒の胸にも罪悪感がせりあがる。
一方で珊瑚は居住まいを正し、深々と頭を下げた。
いつもの紅白の小袖姿に妙に安心感を覚えながら、どうしたものかと暫く思案していると、珊瑚が体を起こして、上目遣いに見つめてきた。
「だからねぇ…教えて?」
「…っ」
珊瑚に全くその気がないのは分かる。
むしろ真剣に、真面目に言っているのだ。
だがしかしそれは最強の殺し文句ではないだろうか。
憎からず思っている相手に、きゅっと眉を寄せた悩ましげな表情でそのような台詞を吐かれたら勘違いしそうになるのは当然だろう。
思わず手を伸ばしかけたところではたと気づく。
珊瑚の体はわずかに震えていた。
不安を押し込み、退治屋の矜持だけで己を奮い立たせる珊瑚の心の震撼が伝わってくる。
弥勒は伸ばした手をそのまま彼女の肩にそっと乗せた。
「そんなに気負うことはありません。お前のことは信頼しているし、妖怪退治屋としての腕も認めています。私だけじゃありませんよ、仲間の誰もが思っています。」
そう言ってまさに仏のごとく優しい笑みを与えてやる。
その微笑みに珊瑚は緊張が瓦解してしまい、不覚にも涙腺が緩んでしまった。
弥勒はその優しい笑みのまま、抱き寄せるかのように体を近づけ、肩に置いていた手を持ち上げそっとその涙を拭った。
「私のことは道中ゆっくりお話ししましょう。」
耳元で無駄に甘く囁かれた珊瑚は、その耳からさーっと顔中真っ赤にし、固まってしまった。


特段怪我が酷いとか具合が悪いということでもなかったため、村長から謝礼を受け取ると、一行はすぐにその村を後にした。
念のため最後にもう一度裏山を探ったが残党が居るわけでもなく、記憶を取り戻す手がかりも何一つなかったため諦めてその地を去ったのだ。
弥勒は宣言通り道中己や仲間の境遇、これまでの旅の話などを珊瑚に聞かせた。
悲しい話や辛い記憶は曖昧にぼかされ、知性に富んだ弥勒の話に珊瑚はすぐに夢中になった。
もちろん彼の語りの裏に苦い話が隠されていることは珊瑚も気づいていたが、それは自分への法師なりの思いやりなのだろうと敢えて指摘はしなかった。
むしろ大切に扱われているような気がして、心が躍っている自分さえいる。
当面の目的は四魂の玉の欠片を探すことだというが、大きな戦闘もなく平和な日々が続いていた。


************


その日入った山には温泉が湧いていた。
くつろぐ弥勒に犬夜叉の白い視線が刺さっているが無視を決め込む。
「おいてめぇ、何考えてやがる。」
「…なに、とは?」
「しらばくっれんじゃねぇ!珊瑚のことだよ。」
「別に何も考えておりませんが?」
心底不思議そうな顔を向けられ犬夜叉の頬は怒りに紅潮する。
「だっておかしいだろ!あれから妙に優しいし、尻は触らねぇし、風呂は覗かねぇし、ほかの女にもフラフラしねぇ!」
「人としてはそれが普通じゃがのう」
温泉をぷかぷかと泳いでいた七宝が当然の突っ込みを入れた。
「そうですよ、何ですかそれのどこがおかしいというのです」
「てめ…っ」
全く意に介さない法師に、口では勝てない犬夜叉が地団駄を踏む。
「あれは珊瑚ちゃんを本気で落とそうとしてるに違いないわ!」
「…」
「と、かごめが言っておったぞ。」
七宝の冷静な指摘に思わず弥勒は閉口してしまった。
この子妖怪、味方か敵か。
普段女湯でいい思い(羨望)をしているはずの七宝が男湯に入ってきた辺りからおかしいとは思っていた。
かごめが派遣してきた密偵というのが妥当かと結論付け大きくため息をついた。
「何ですかそれは。いいか、珊瑚は記憶がないんですよ。皆の前では殊勝にしているが不安に思っているに決まっているだろう。そんなおなごに優しく接するのは当然でしょう。」
「そこに付けこんでたらしこんでいるというのがかごめの見立てじゃ。」
「そういうこった!珊瑚に変な真似すんなよ!」
「何もしてないでしょう。信用ありませんなぁ」
再び深くため息をつき、弥勒は先に湯を上がった。


実のところ弥勒は珊瑚をたらしこんでいる自覚があった。
別に押し倒そうとかそういう不埒なことは(まだ)考えていない。
己の悪癖や忌まわしい過去を知らない珊瑚が、純粋な憧憬の気持ちで懐いていることが歯がゆくもあるが嬉しい。
呪いを継いでいることは言ってあるが風穴の脅威を実際目にしていない珊瑚に、その真の恐ろしさや弥勒の心情までは理解されていないと思われる。
法師という肩書による絶対的信頼と、整った顔立ち、知性と優しさをフル動員して迫れば、珊瑚が陥落するのは一瞬であった。
まして今の珊瑚は己の身に降りかかった悲惨な事件も知らぬ、ただの若い娘なのだ。
普通に恋をすることに何の疑念も抱かない。
素の珊瑚の柔らかな笑みや明るい笑い声が可愛く、そんな表情を意のままに己に向けさせる。
そうして真白な珊瑚を染め上げていることに充足と同時に芽生える背徳感。
それですら弥勒の心の奥のどこかを突き上げていた。
(まずいなぁ)
その不味さをもちろん弥勒は分かっている。
珊瑚の気持ちを己に向けさせ満足している一方、珊瑚に返してやれるものは何もない。
この呪いを抱えている限り幸せにしてやれないという事実は、例え記憶喪失が二人の間柄を密にしようとも横たわり続ける。
「何やってんだ俺は…」
これまでだって珊瑚の気持ちが自分に向いていると感じることはあったし、自分だって彼女のことを気にかけていた。
だが、それ以上関係が進まないようにセーブしていたのも事実である。
それなのに。
あの月夜に、何も知らない珊瑚をすべて自分のものにしたいという征服欲が生まれてしまった。
聖職者のくせに煩悩に勝てない、むしろ勝つ気のない己に自嘲の笑みが零れた。


野営地では湯上りの女たちが、薪置きに設えられた小さな小屋の片隅で、ガールズトークに花を咲かせていた。
「ねね、最近弥勒様とどう?」
記憶をなくした珊瑚には、時折見せていたどこか暗闇に飲まれそうな危うさみたいなものはなく、普通の村娘のようである。
何もなければこんな娘だったのかと思うと切なくはあるが、気安いのも事実である。
よってこのように軽率に話題を振ってしまうことを止められない。
「えっ、どうってな、な、なにが?」
弥勒の話を振ると、しどろもどろに真っ赤に頬を染める仕草は変わらないな、と思いかごめは微笑んだ。
「だって何だかいい感じじゃない?弥勒様は珊瑚ちゃんのこと、かーなーりー気にかけてるみたいだし」
「それはあたしの記憶がなくなったからで…」
「それはそうだけど、必要以上に優しい気がする。前から優しい人だったけど、最近はやっぱり珊瑚ちゃんにだけ甘い気がするもの」
「そ、そうなの…?」
そう震えるように言う珊瑚の口元はわずかに緩み嬉しさが隠せていない。
だが、かごめの言葉から違和感を拾ったようだ。
「あの、さ。それじゃ、何で最近甘くなるわけ?前から一緒に旅してたんだろ?」
「それはやっぱり、最近珊瑚ちゃんが可愛いからよ!」
「?」
「もちろん前から美人ではあったんだけど。最近は何だか素直に気持ちが表情とか仕草に出てて。そりゃ、…弥勒様からしたら堪らないわよ〜」
かろうじて女好きのという修飾語を省くことができた自分に心の中でグッジョブと指を立てるかごめだが、珊瑚は別のことに気を取られたようだ。
「前のあたしって素直じゃなかったってこと?」
「あ、いや…別に隠し事してたとかそういう意味じゃないの。」
「…みんなの前で見せる性格が前とは違うんじゃないかってのは感じていたんだ。特に七宝が物珍しそうに見るから。」
老成しているとは言えまだまだ子供である七宝はそのあたりうまく誤魔化せない。
「でもあたしは何も変わったつもりはない。記憶のない間に何かあって、みんなの前では本当の自分を見せていなかったのかな、とも思うんだ。」
「珊瑚ちゃん…」
「みんながあたしを思って何かを隠してるのは知ってる。その気持ちを押しのけてまで聞こうとは思わないけど、これまでのあたしが偽りの姿だったとしたら、騙してたみたいで申し訳ないなって…」
「ん〜!」
傷つけたかな?と内心焦っていたかごめは、その心根の優しさに感動し思わず珊瑚に抱き着いた。
「謝ることなんて何もないの。記憶がなくて不安だろうけど、ね。もうあたしたちこんなに仲良しなんだから。変な気回さないでね」
「かごめちゃん…」
前にもこうやって抱きしめてもらったような気がするな…と珊瑚がぼんやり考えていると、かごめがニヤリと笑った。
「で、珊瑚ちゃんは弥勒様のことどう思ってるの?」
話はそこに戻るのかー!
「…優しくしてもらって嬉しいし、その、か、かっこいいな、って思ってるよ」
「きゃー!」
「でもそれだけ!それ以上はないんだから!」
「かごめー、水汲んできたぞー!」
「あ、ありがとう七宝ちゃん!すぐカップ麺作るわ!」
七宝の登場により、かごめの追及を免れた珊瑚は小さくため息をつく。

記憶を失ってからここ数日のことを思い返してみる。
記憶がないことで多少不便なことや不安に思うこともあったが、仲間と過ごす時間には割とすぐ馴染み、やはりともに旅をしていた時間があるのだろうと思う。
そして法師の隣に並んでいるときの胸の高鳴りを、否定することができなくなっている。
以前の自分たちはどんな関係だったのか、自分は彼をどのように思っていたのか、聞きたいが勇気が出ない。
しかし彼から向けられる視線に何か意味があるような気がして、日に日に思いが膨らんでいくのをどうすることもできず持て余している。
(ちょっと不謹慎なのかな)
笑って話してくれるが、皆たいへんな身の上なのだ。
迷惑をかけているうえに、浮ついた気持ちで同行している自分にちょっぴり反省をする。
気を取り直して夕餉の手伝いをしようと小屋を出ると、辺りは不穏な空気に包まれていた。
途端珊瑚の表情は退治屋のものになる。
屋根の上に居たはずの犬夜叉も音もなく降りてきた。
「来る!」
彼が叫んだと同時に森から現れたのは、間違いなく殲滅したはずの彼の妖鳥だった。
「くそっまだいやがったのか!」
鋭利な爪を振りかざしながら、犬夜叉が呻いているが、なんとも数が多く苦戦を強いられる。
切り裂いたように見えてもいくらでも湧いてくる。
「斃したのではなかったのか!」
妖鳥を追いかけるように姿を現した弥勒も錫杖を振り回しつつ珍しく声を荒げて怒鳴った。
「間違いねーっつってんだろ!」
「ではこれは何だ。」
「分からん。だが、あの親鳥の臭いがする。」
「は?今、斃したと言ったではないか!」
「珊瑚ちゃん!」
言い争っている背後でかごめの悲痛な叫びが聞こえた。
振り返ると、彼らが取りこぼした妖怪に飛来骨で応戦しながらかごめたちを守っていた珊瑚が、頭を抱えて蹲っている。
「珊瑚!」
弥勒は駆け寄りたいところだったが、ここを離れると娘らへの攻撃が大きくなるだろう。
彼の逡巡を察したのか、珊瑚の傍に寄り添っていた雲母が巨大化しやってきた。
持ち場を代わろうとしたが、予想外のことが起きた。
妖鳥の動きが変わったのだ。
明らかに猫又めがけてやってきている。
雲母にもそれが分かったらしく、ルートを逸れ皆から離れていく。
(何だ今のは…!)
弥勒には、一瞬雲母がそばに寄ってきた際に奇妙なものが視界に入っていた。
「どういうことだ…」
犬夜叉が茫然と呟いている間も、雲母の後を夥しい数の黒い塊が追いかける。
弥勒は頭をフル回転させると、雲母に向かって走り出した。
「あ、おいどこ行く!」
「このままじゃ埒があかん!片づけるから皆を後ろに下げてくれ!」
「お、おう分かった!」
法師の意図を察した犬夜叉が衣を翻しかごめらの元へ向かう。
「珊瑚は大丈夫か?」
「分からないわ。だけどあの鳥の声にやられてるんだと思う。」
妖怪であったり破魔の力を持った仲間に比べて、そういう点では珊瑚は普通の人間だ。
しかもすでに精気を吸われていることもあり、妖鳥の群れの鳴き声はひとたまりもなかった。
「弥勒様は?」
「あれを一掃するつもりだ。離れるぞ。」

犬夜叉の背中から振り返り、彼方に見えたのは雲母に飛び乗った法師だった。
すかさず左手が右手の数珠と手甲を外す。
あれ、封印になっていたんだ。
と考える間もなく、凄まじい轟音と空気の揺れにぼんやりとしていた意識が覚醒した。
「え…」
彼の掌に消えていく妖鳥と、険しい顔の法師をただ目を見開いて見ているしかなかった。
「くそっ」
法師の異変に気付いた犬夜叉が舌打ちをする。
犬夜叉は適度な距離に珊瑚たちを避難させると、踵を返した。
あっという間に法師のもとにたどり着く。
「てめ、くたばりそうな面してるぞ!」
背後から弥勒の腕を掴むと、乱暴に封印の数珠を巻き付けた。
「てめぇは寝てろ」
これだけ数が減ればあとは風の傷で何とかなるだろう。
犬夜叉は腰に佩刀している己の得物に手をかけた。


「珊瑚ちゃん、大丈夫?」
安全な地に降り立った珊瑚の顔色がますます悪くなっていく。
(何あれ)
目の当たりにした呪いの凄まじさたるや。
あの優しい法師があんなものを抱えていようとは想像も及ばなかった。
背を優しく撫でてくれていたかごめの手の動きが止まる。
と同時に心配げに尋ねるかごめの声が耳に入った。
「あの妖怪はどうなったの?ちゃんと斃した?」
のろのろと顔を上げると、仏頂面の犬夜叉が頷いている。
その後ろには法師を背に乗せた愛猫の姿がある。
そして彼はひどく憔悴していた。
珊瑚ははっとした。
あの呪いは敵を屠る圧倒的な力であるとともに、己を蝕む諸刃の剣なのだ。
珊瑚は不安な表情を浮かべ、彼の瞳をじっと見つめた。
一瞬あった瞳は逸らされてしまう。
「…まだ禍々しさが消えていません」
それは珊瑚も感じていた。
「やつらが残っているのか?」
「いや。…ところで七宝」
弥勒が子狐に問いかけながら、緩慢な動作で雲母から降り、猫又の首元に視線をよこした。
「これに心当たりはないか」
犬夜叉と七宝が近づくとそこには紅玉のガラス玉が紐で結ばれていた。
「何だこれは?気味悪いな。」
「それはおらが拾ったものじゃ。…え、まさか、それが?」
七宝は弥勒の無言の肯定に狼狽する。
「ね、それどうしたの?」
七宝が慌てて説明をする。
いわく、親玉を退治したときに転がり出てきたものだと。
「てめっそんなもの隠していやがったのか!」
「あまりに奇麗じゃったから、拾って大事に持っとった。雲母の瞳に似てるなーと思って、雲母にあげたんじゃ。」
さーっと七宝が青ざめる。
「…この玉を追ってあの妖鳥がやってきたのじゃろうか」
「それにしても何で急に…」
「雲母の妖気に反応したのかもしれません。子供である七宝より妖気が強い。」
七宝が複雑な表情で雲母を見上げた。
「犬夜叉お前、先ほどの群れから斃したはずの親玉の臭いがすると言ったな。」
「ああ」
「そしてあの親玉は粉々に砕け散ったと。」
「それはおらも確認しておる。」
「その砕け散った残骸が妖鳥の姿を成し、その玉を目指して襲ってきたのだとしたら。」
「あの夥しい数の説明は行くな。」
「その玉、そんなに大事なものってこと?」
「妖鳥を動かしていた核となっていたもの。親玉の魂魄と言えるのではないかと。そして、親玉の魂魄とはすなわち…」
「失われた人々の記憶…?」
はっとしたかごめが目を見開いた。
弥勒が無言で頷く。
「それを壊せば珊瑚の記憶は戻るのか…?」
「その可能性は高いと思います。」
そう告げて、弥勒はようやく珊瑚のほうを見た。
「というわけだ、珊瑚。…どうする?」
「え…」
「本当に記憶が戻ってもいいか、と聞いている」
いつにない厳しい声音に珊瑚は戸惑う。
と同時に珊瑚は再認識する。やはり自分には忘れていたい不幸な過去があるのだと。
それでも。
「いいんだ、どんな過去があっても。みんなによくしてもらったから。ちゃんと恩を返すには、やっぱり知っていなくちゃいけないと思う。」
そうして珊瑚はわずかに微笑んだ。
珊瑚のその柔らかな笑顔を弥勒は食い入るように見つめた。
この屈託のない表情が見られるのは最後かもしれない。
しばらく見つめあった後、法師は何かを断ち切るようにその視線を逸らし、ガラス玉に手を当てる。
ガラス玉は苦し気に呻く弥勒の手の中で鈍く輝き一層禍々しさを増したように見えた。
ぞっとした弥勒が雲母の首元から引きちぎり、勢いそのまま地面に叩きつけた。
そして錫杖を思いっきり突き刺した。


************


珊瑚が目を開けると皆が心配そうに見下ろしていた。
先ほど夢を見るように消失していた記憶が流れ込んできた。
どうして忘れていられたのだろう。
その表情に記憶が戻ったことを悟った一行だが、手放しで喜ぶことはできないようだ。
逆に気を遣わせてしまったな、と苦笑いを浮かべた。
「あの…」
「おかえりなさい、珊瑚」
どう言おうか考えあぐねていた珊瑚の耳に力強い声が聴こえた。
それを皮切りにやいのやいのと皆が明るく声をかけてくれた。
「うん、ただいま…」
辛い記憶も蘇ったが、皆のもとに帰ってこれた気がして、それが嬉しくて身を寄せてきた雲母の体に顔を埋めて少し泣いてしまった。


割れたガラス玉は通りすがった神社に丁寧に奉納した。
今頃はかの村で妖鳥の餌食になった者のあいまいだった記憶も戻っていることだろう。
珊瑚は弥勒の隣を静かに歩いている。
昨日までより少し空いてしまったその距離を弥勒は複雑な心境で見つめていた。
真白な彼女はあのおぞましい呪いをどう思っただろうか。
そして彼女は今、何を思っているのだろうか。
昨日までの縮まっていた二人の距離に思いを馳せる。
これでもちろんよかったのだ。
ちょっとした出来心で珊瑚に近寄りすぎた。
弥勒の本性を思い出した珊瑚はまた警戒をしてくれる。
またあんな無防備にすり寄られたら今度こそ何をしでかすか分からない。
「…あのさ」
「…」
「法師様、ずいぶん優しかったよね。」
「…それはそうだろう」
「助平なことしてこないし。」
「当たり前でしょう」
「なんだか、さ。」
そしてチラリと向けてくる視線にドギマギしてしまう。
「…勘違いしそうになったよ。」
「…珊瑚」
その表情は反則だ。
白磁の頬が美しく桜色に染まる。
記憶のあるなしなど関係ない。
やはりあの無防備で愛らしい娘と同一人物なのだと思い知らされた。
衝動的に珊瑚の手首を掴んでしまう。
「な、なに!」
一心に寄せる思いを隠すことができていなかった娘を思い出し、思わず腰を引き寄せる。
重なる直前まで唇が寄ったところで我に返った珊瑚が彼の胸を突き飛ばした。
「もう!勘違いしそうになったって言っただろう!勘違いしてないんだから!調子に乗るな、この助平法師!」
睨みつけてくる顔が眩しい。
だが表情を和らげると柔らかな声音で呟いた。
「でもちょっと尊敬しちゃった。」
はて?と法師が首をかしげる。
「やっぱり法師様がいつも笑ってるのって凄いんだなって。」
そう言って向けられた笑顔には曇りがなく、目を瞠ってしまった。
彼の視線が恥ずかしくなった珊瑚はそそくさと前を行く犬夜叉たちを追いかけて行ってしまった。

「あ、ぶなかった…」
先ほど押された胸元に手を添え弥勒は呻く。
柔らかな笑顔が脳裏を離れない。
そして気づいてしまった。
―もうかの娘はすっかり己色に染まっているではないか。
どこまで抑えられるのだろうか、この衝動を。
弥勒は娘の背に揺れる長い黒髪を見つめながら、鳴り響く鼓動の音を抑えるかのように胸元に置いていた手をきつく握りしめた。





■□戻る□■





inserted by FC2 system