青い海。
青い空。
気温は高いが、空気はカラッとしていて気持ち良い。
「…いつまでもメソメソしてらんないな!」
サングラスをおでこに乗せた珊瑚は、背筋を伸ばした腕をそのままおろして、自分の頬をパンッとたたいた。



Sweet Summer Cinderella


薄手のシャツに短パンに赤いサンダル。
持ち物は小ぶりのリュックとカメラだけ。
お気に入りのひまわりのモチーフがついた麦わら帽子をかぶり、白ぶちのサングラスをかけ、珊瑚は海岸沿いの広い国道をひたすら歩いていた。
一応日焼け止めは塗っているけど、黒焦げになったっていい。
どうせ心は焦げ付いている。
…色白の珊瑚は、こんがり焼けることはなく、赤くなってヒリヒリ痛むので、後悔することは分かっているのだが。

珊瑚がこんなヤケクソに一人歩いているのにはわけがある。
彼女はいわゆる、失恋をしたのだ。
別に婚約破棄されたとか、恋人に浮気されたとかそんな大層なものではない。
社会人になって2年、今の職場に勤め始めてからほのかに思いを寄せていた上司が先日結婚したのだ。
そして、彼女の淡い思いに気づかない上司はあろうことか、自分の結婚式に珊瑚を招待したのである。
ひきつった笑顔で招待状を受けとった珊瑚だが、結局その結婚式を欠席して今こうして傷心旅行に出ているのである。
いっそドタキャンしてやろうかと思ったが、真面目な珊瑚にそこまでは出来ず、丁重に欠席の返信を郵送し、結婚式の日取りに合わせて長い有給をとったのはナイショの話。


「はぁ」
気持ちを切り替えようと、前を向いて歩くが、そのうち気分が沈んできてため息をついてしまう。
これではいけないと思い直すがまたため息…そんなことを繰り返していると、何やら声が聞こえてきた。
視線を巡らせると、ビーチに立ち並ぶ海の家のようなコテージの間で何やら人が揉めているようである。
(…日本人?)
男たちは黒髪で、顔立ちもアジア系である。何よりところどころ拾える言葉が、日本語のような気がする。
何となく興味を引かれてそちらを眺めていると、そのうち一人がいきなり振り返り、猛スピードで走り出した。
そしてこちらの方にやってくる。
「えっ」
ガードレールをひょいっと飛び越えやってきた男は―日本人ではなく東南アジア系だっただろうか、珊瑚に思いっきりぶつかると肩からかけていたカメラを奪い逃走していった。
「…!ドロボー!!」
ぶつかられた勢いで転んだ珊瑚が、慌てて立ち上がったが足を捻挫してしまったようで、痛みでまたへたり込んでしまった。
(あれには…先輩との思い出の写真も入っているのに…)
小さくなる男の背が滲んで見える。
揉めていた男たちが珊瑚には目もくれずに、怒号と思しき声をあげながら追いかけていく。
(あの人たちあの男を捕まえたところでカメラ返してくれるのかな…)

「お嬢さん、日本人?立てますか?」

そう穏やかな声がかかり、ショックでブラックアウトしそうだった珊瑚の意識がはっと戻った。
慌てて振り返ると、人の好さそうな若い男が手を差し出してくれていた。
「だ、大丈夫です!」
差し出された手を借りず、慎重に立ち上がると、おずおずとその青年を見上げた。
青年は、さして気を悪くした風でもなく行き場をなくした手を元の位置に戻すと彼女を安心させるようににこりと微笑んだ。
「あの…日本語、分かります?」
「ええ。私は日本人ですから。」
珊瑚が少しだけ安堵した表情をすると青年の微笑みは深くなった。
「ええと…こういう場合、警察に通報すればいいんでしょうか?警察の番号って知ってますか?」
「ああ、それなら…」
そこで青年の笑みがさらに輝く。
…笑顔が完璧すぎて胡散臭い。
「ちょっと私の頼みを聞いてくれたら、カメラ、取り返してあげますよ。」
「…は?」
珊瑚の声のトーンが一気に低くなり、きりっとした目が鋭くなる。
「頼みったってそう難しいことではないんです。それよりもカメラの件に関しては、私に任せておいた方が確実ですよ。」
「どういう意味?」
「ここではこういった軽犯罪は日常茶飯事ですからね。警察に行ったってまともに取り合ってもらえない。うまく行って犯人を捕まえてくれてもその頃には貴女のカメラは売り飛ばされて行方知れずになっていますよ。」
「何で、あなたは取り返せるって言うの」
珊瑚の口調がだんだん雑になっていく。
「まあ、それはいろいろと。それより、暇なんでしょう?見たところ連れも居なさそうだしこんなところで一人ぶらぶら日本の若い女性が歩いてるとすると…」
と、そこで言葉を切った青年はすっと珊瑚の耳元まで顔を寄せて囁いた。
「おおかた、失恋でもしてその傷を癒しに来た、とか?」
「!な、!」
当てられたことに驚いたというよりも、周りからもそう見えていたのかと言う恥ずかしさで珊瑚の顔はさーっと赤く染まった。
「図星、ですね?」
「だったら何だっていうんですか!あの、もう、結構です。自分で何とかします。別に高いものでもないし…なくしたって別に…」
「でも、大事なメモリーが入っていたのでは?」
びくっと肩を揺らした珊瑚の分かりやすさに、青年は思わずと言った様子で小さく笑った。
(あれ…)
動揺していたことも忘れ、珊瑚はその表情に見入ってしまった。
「どうかしました?」
「あ、いや…」
「ああ、そうか。見ず知らずの男から頼みごとなんて言われても困りますよね。申し遅れました。私、とりあえずそこのコテージでオーナー的なことをやってます。」
質のよさそうなシャツのポケットから出てきた、これまたセンス抜群の洒落た名刺を手渡される。
「…ミ、ロ、ク?」
「ええ。弥勒菩薩様と同じ字を書くんです。」
「変わった名前…ですね。」
「よく言われます」
英語で書かれた名刺はよく分からないが、着ているものや喋り方からして、お金に困っている人ではなさそうである。
「お嬢さんは?」
「え?えーと…」
一瞬フルネームがよぎったが、あまり個人情報を流すのもどうかと思われ少し逡巡した結果、下の名前だけを答えることにした。
「…珊瑚と言います」
「珊瑚?綺麗な名前だ」
トクン―
(ああ、また…)
「では珊瑚さん、貴女はこの旅に何を求めて来ましたか?」
「え…?」
唐突な質問にゆらゆらしかけていた気持ちが現実に戻ってくる。
「失恋の悲しみを癒すだけならこんなところまで来なくてよかったはずだ。遥々こんなところまで来たのはきっと…変わりたかった、からじゃないですか?」
自分でも整理しきれなかった気持ちを、奥底に秘めた感情を、この穏やかな声に揺さぶられるようで俯いてしまった。
「このまま帰ったら、後悔しますよ。見ず知らずのコソ泥に大事な思い出が葬り去られるだけですからね。」
「…」
「私と一緒に行きましょう。夢を見せてあげますよ。そして新たな気持ちで、また日常に向き合えばいい。」
そう力強く言って、弥勒は再び手を差し伸べた。
「ね?」
押しのウインクに珊瑚は根負けしたように、今度こそその手を取った。


「ところで頼みっていうのは?」
「ああ、そうですね。ちょっとパーティーに一緒に出席してほしくて。」
「パーティー?」
「まあ知り合いの集まる軽いものなんですが、どうしてもご婦人同伴でないとカッコがつかないようなんですよねえ。」
気の抜けた声で言いながらゆったり、だがスマートに歩く彼の背中をぼんやり追いかける。
「はぁ」
「もともと声をかけていた友人とは連絡がつかなくなりまして。」
「それはまた…」
「こういうところですからよくある話です。貴女と出会えてよかった。申し分のないルックスだ」
ちらっと振り返った弥勒の意味ありげな視線にいささか首を傾げるも、話の続きを促す。
「今回のパーティーでは、連れの婦人の美しさを競わせるような節があるらしく…」
「はぁ…っては?そんなの聞いてない!」
「今言ってるんですが。」
「嫌です、そんなの。勝ち目ないし。」
「勝たなくても別にいいんですよ。」
(勝ち目はあるだろうが…)と内心弥勒は思っていたが、娘が自分の美貌に割と無頓着らしいことに気づき、そこまで口に出さなかった。
「まあとにかく先に足の治療をしましょう。その後、ドレスを見立てましょう。」
「え、ちょっと…」
反論しようにも、その相手があまりに軽いノリなので、逆に気が抜けてしまった珊瑚は小さくため息をつき、黙って従うことにした。
(やっぱりちょっと似てるな…ちょっと笑ったときの困り顔とか、特に…)
目の前の男と、吹っ切りたいと思っていた彼の人とを重ね切ない気持ちになり、そしてそう思ってしまう自分が情けなくて今度は重々しいため息をつくのであった。


診療所らしき小さな家屋で診察を受けた珊瑚は、痛みと腫れを引かせる薬と湿布を貰い、大分と歩くのが楽になった。
そこに居た老人は、弥勒曰く、恰好はヘンテコだが、腕は確かな医師らしい。
(次はドレスを用意するって言ってたっけ…)
どうせそこら辺の炉辺で売っている土産物のようなドレスをあてがわれるのだろうと思っていた珊瑚は、診療所を出て、車が待っていたことに驚いた。
しかも、こんな狭い土地に不似合のいかにも高そうな長い車である。
「さあ、乗って。」
軽く言って車から降りてきた弥勒は先ほどと同じ格好だが、ドアを開け、エスコートする姿があまりにも様になっており、やはり只者じゃないと思わせる。
しかし、見ず知らずの土地で知らない人の車に乗るというのは危険ではないだろうか?
流石に不安に思ったが、先ほど弥勒に言われた『変わりたいのでは?』と言う問いかけとウインクを思い出し、一歩を踏み出したのだった。

たどり着いたのは立派なお城のような家だった。
「あの、ここは…」
「我が家です、一応」
「え!?」
「ああ、確かに男の一人暮らしですが、今はメイドが数人いますから、心配せずとも大丈夫ですよ。さ、入って」
どこをどう突っ込めばいいのか分からず、もうこの際これも観光だと思い込むことにして彼の家へ踏み入った。
「誰かいないか」
弥勒がそう声をかけると数名のメイドが音もなく現れた。
そのうち最も年嵩そうな女が声を上げた。
「お帰りなさいませ、旦那様。…こちらは?」
「今日の夜会に連れて行く娘だ。言っていただろう?」
「…お相手はテレサ様だと聞いていましたが。」
「ああ、彼女とはなぜか連絡がつかなくて。まあ誰だっていいだろう?手筈通り頼む」
「旦那様…!」
メイドはまだ何か言いたそうだったが、弥勒がさっさと自室に引っ込んでしまったので、口を噤んだ。
珊瑚が唖然とその様子を見ていると、別のメイドが声をかけてくる。
「Excuse me?」
「あ、は、はい!」
「…あら、日本人なんですの?」
「は、はい」
「それは嬉しい。」
「日本のお客様なんて久々だわ。」
と、口ぐちに言い合うメイドの様子から見て、メイドのほとんども日本人なのだろう。
「とにかくこちらへ。ドレスをご用意するように命じられているので。」
なんだかよく分からないながらも歓迎はされているらしくちょっぴり安堵した。
自分でも気づかぬうちに緊張していたらしい。
メイドたちに誘われるがままに連れて行かれた部屋には、いくつもの煌びやかなドレスとアクセサリーなどが並んでいる。
衣装部屋なのだろうが、誰のために用意されているのだろうか。
(男のひとり住まいって言ってなかったっけ…?)
珊瑚が呆気にとられていると「失礼します」と言ってメイドたちが遠慮なく珊瑚の衣服を剥いでいく。
「え、え???」
あれよあれよという間に下着姿にされた珊瑚は、恥ずかしさのあまり体が縮こまる。
いくら女しかいないとは言え見知らぬ人の前で無防備な姿をさらすのは恥ずかしいに決まっている。
しかしメイドたちはそんな珊瑚にはお構いなしにああでもないこうでもないと衣服を宛がっている。
(この人たちにとってあたしは単なる旦那様の人形ってわけね…)
妙に納得した珊瑚はお陰で冷静になった。
「あの…」
そこで、思い切って気になっていたことを尋ねてみることにした。
「何でございましょう?」
流石はプロだ。衣装に夢中になっているのかと思えば素晴らしい微笑みで返答してきた。
「その、さっき言ってたテレサ様…っていうのは?」
「ああ。旦那様のフィアンセでございますよ」
珊瑚は驚いて目を瞠った。が、すぐに思い直す。
これだけの女物の衣装を揃えているのだ。
そういう相手がいるのかもと思ったからこそ珊瑚も尋ねたのだから。
「だけど、連絡つかない、っていうのは大丈夫なんでしょうか?」
「ええ、まあいつものことですので」
「は?」
メイドの気のない返事に珊瑚が困惑していると、珊瑚の肌を清めていた別のメイドが口を出した。
「婚約破棄なんてもう何回目か。」
「まあフィアンセって言っても大奥様が勝手に決めてこられるだけで、旦那様にはそんな気ないんですよ」
珊瑚の採寸を行っていたメイドが補足してくれた。
「いつも何だかんだあって気づいたら旦那様が振られているんです。」
「っていうよりあれはお相手の方から離れるように仕組んでいるとしか思えないわ。」
「自分が振ったってなったらあとあと面倒だし大奥様とも揉めかねないしね」
「な、なんだか複雑そうですね」
だんだんヒートアップしてきたメイドたちの会話に恐る恐る珊瑚が口を挟むと、3人の視線が一気にこちらを向いた。
「要は…」
と一人が口を開くと、3人の声がそろった。

「「「旦那様は浮気者なんです」」」

「楽しそうですなあ」
のんびりとした声音をあげて現れたのは今まさに話題の中心となっていた”旦那様”その人だった。
「旦那様!」
「こちらかこちらがよろしいのではないかと思うのですがいかがですか?」
口を動かしながらてきぱきと手も動かしていたメイドたちは、いつの間にか、大量のドレスの中から珊瑚に似合うものをいくつかピックアップしていたようだ。
どうやら弥勒も自室に戻り着替えていたようで、先ほどまでのラフなスタイルから一変して仕立ての良いスーツを身に纏っていた。
人に構われるのを好まない弥勒は、これだけメイドがいても自分ひとりで着替えもしてしまう。
シンプルながらにセンスがよく、高級だと一目で分かるデザイン。
それを嫌味なく着こなしているのだから、やはり着ている彼の魅力なのだろう。
そんな弥勒に見とれていると同じくこちらを凝視していた弥勒がふと目を逸らした。
「ああ…彼女のスタイルの良さを生かせる方にしてくれ」
その態度に何となくぎこちなさを感じた珊瑚が不思議そうに己の姿を見てぎょっとした。
ローションやら香水やらを振りまかれながら、着るドレスが決まっていなかった珊瑚はまだ下着姿だったのだから。
直後、強烈な破裂音とメイドたちの悲鳴が屋敷中に響き渡った。


珊瑚は例の高級車の中でできるだけ扉に身を寄せて、小さく小さくなっていた。
男性に半裸を見られた恥ずかしさと、混乱して暴力をふるってしまった申し訳なさと、未知の場所へ連れていかれているという不安といろんな感情でぐちゃぐちゃになっていたが、一番は、悪びれるでもなく怒るでもなく飄々と隣に座っているこの男に対する漠然とした苛立ちに占められていた。
すっかり表情は固まってしまっているが、その顔の周りを車の揺れに合わせて、ふんわりと高く結いあげた髪が揺れる様は愛らしい。
緩やかにかけられたパーマと、シンプルで小ぶりなデザインのティアラで、可愛らしくもどこか大人っぽいプリンセスを演出しているらしい。
あくまで素材の良さを引き出すことにこだわった控えめな化粧だが、目元に引かれたワインレッドのシャドウがやけに色っぽくついうっかり見つめてしまいそうになる。
マーメイドラインの、落ち着いた白を基調としたそのドレスは、肩から胸元にかけて大胆に露出されている。
ぎゅっと縮こまっている珊瑚は、そのせいで豊かな胸元が強調されているのに気づいていないし、それが隣の男の目にどう映っているのかなど知る由もない。
ドレスの左足側には大きくスリットが入っており、裂け目の上部にひまわりのコサージュがあしらわれている。
これは珊瑚の体型にあわせドレスを手直ししている間に、珊瑚のかぶっていた麦わら帽子に飾ってあったのが印象的で、弥勒が急きょ用意したものだった。
そうこうしているうちに目的の場所についたらしい。
弥勒が先に車から降りると、振り返り優しげな表情で手を差し出された。
本当は無視してズカズカ進みたい気分だったが、屋敷を出る前にメイド頭と名乗った女性に「くれぐれも粗相のないよう!」と釘をさされたのを思い出し、仕方がなくその手を取った。
そのあまりの素っ気なさに弥勒は苦笑するも、珊瑚が慣れないヒールで転ばないように手を強く握りさりげなくドレスの裾をさばいてやった。
そして彼女の耳元に唇を寄せて囁いた。
「そんな仏頂面してたらせっかくの格好も台無しですよ。笑ってください。」
弥勒は本心を言ったつもりだったが、珊瑚は言葉通りに受け取らなかった。
(いけない。いけない。依頼を受けてるんだから役割はちゃんと果たさなきゃ…)
はっとして一瞬眉を寄せたあと、ぎこちなく微笑みを浮かべた。
何とか機嫌が戻ったらしい珊瑚の様子に安心したように弥勒も微笑みを返した。
「さぁ行きましょう」


そのパーティー会場は教会のようだった。
だがその教会は市民の憩いの場などではなく、権力と財を持った宗教者の持ち物にほかならず、その内装はいかにも豪奢で、シャンデリアや絵画やキャンドルが贅沢に配置されている。
食器や机などの調度品のすべてがアンティークで値が張りそうだ。
そしてそのどれもが洗練されたデザインで、ため息を吐きたくなるような美しい光景だった。
珊瑚は屋敷を出る前に、メイド頭からパーティーに出席するのに必要な礼儀作法を教わっていた。
上流階級の習慣など、しがないOLの珊瑚に分かるはずもなく、最低限だけ身につけて後は旦那様の横で優雅に笑っていればいい、とにかく粗相のないようにと言い含められていた。
弥勒には「本当にラフなものだからそんなに意気込まなくていい」と言われていたので珊瑚も何とかなるだろうと思っていたのだが、実際会場に着いてみるとそのあまりの迫力に物怖じせずにはいられなかった。
すっかり怖気づいた珊瑚に気づいた弥勒はまたもや彼女の耳元に唇を寄せた。
「そんなに怖がらなくても大丈夫ですよ。私がいますから。シンデレラになったとでも思えばいい」
「シンデレラ…」
「それより捻挫してるんですから、こけたりしないようしっかり私に捕まっていてください。」
「は、はい…」
と珊瑚はちょこんと彼の腕に乗せているだけだった手に力を込めた。
すると前方から初老の男性が近づいてきた。
「Hi,Mioroku!」
気さくに弥勒に話しかけた男性の言葉は珊瑚にはまったく理解できない。
ぺらぺらではないが多少は分かる英語ではないのは確かだ。
それに現地の言葉でもない。
この国では英語が通じるはずなので、あまりちゃんと勉強はしなかったとはいえ、旅行に来るのだから現地の言葉を簡単なものくらいは仕入れてきている。
何より驚いたのは弥勒が不自由なくその言語で男性と会話していることだ。
唖然とその様子を見ていると突如男性が珊瑚の方を向き、握手を求めてきた。
思わず珊瑚が手を握り返すと、男性は嬉しそうにぶんぶんとその腕を振る。
「珊瑚。挨拶を。」
弥勒の言葉にはっとした珊瑚が呆然としてしまった自分に恥ずかしくなり、頬をほんのり染めながら教わった通りの礼を取り、無難に英語で名乗った。
男性はさらに笑みを深くし、弥勒に何かを言い、弥勒が曖昧に笑うと満足したように去って行った。
ほっとしたように息をつくと、背に手を添えられた。
「行きますよ、珊瑚」
じっと見あげるその瞳に弥勒が首をかしげる。
「何か?」
「い、いえ」
慌てて首を振ると、ゆったりと歩き出した。
(何かいつの間にか呼び捨てにされてる)
こんなパーティーに連れてくる女性だ。
誰もはっきりは言わなかったが、もともと婚約者と来る予定だったというし、弥勒の相手として振舞わなければならないのだろうことは珊瑚にも分かる。
そんな相手を呼び捨てにするのは当然なんだろうけど。
(先輩にも呼び捨てにされたことなかったのに…)
こんな時に片思いしていた彼のことを思い出すなんて、と我に返った珊瑚は気合を入れるように弥勒に捕まっているのと反対の手で、己の頬を軽くたたいた。
するとふっと頭上から笑い声がした。
何事かと見上げると弥勒が小さく笑っていた。
「なんですか?」
「それ、癖なんですか?」
「それ?」
「頬をぶつの」
にやりとしながら自分の頬を指さす。
そこにはよく見なければ分からない程度だが、が珊瑚の手形がほんのりと残っていた。
「な…!」
「いやぁ、びっくりしましたよ」
「だ、だ、だって?」
「まぁ確かに着替え中に入った私が悪いのですが」
「やっぱり、怒ってたんだ!」
「怒ってないですよ。」
「うそ…!」
「しっ」
また声を荒げてしまいそうになった珊瑚の艶やかに彩られた唇を人差し指で抑えた。
うぐっと詰まった珊瑚が慌てて口を噤むと、またもやどこかのハイクラスだと思われる男性が近づいてきていた。


そんな風に何人かとあいさつを交わし、怪我をしているうえに慣れない場に少し疲れていた珊瑚はいつの間にか教会の中庭のベンチに座らされ、ひとりでシャンパンを飲んでいた。
教会の裏側が一面ガラス窓になっているので中の様子はよく分かるのだが、灯りの少ない中庭は中からはよく見えない。
つまり、パーティー会場で優雅に立ち回る弥勒の様子を視界に入れながら、自分は目立たずにいられるのだ。
正直、こんな社交の場に自分はそぐわないと感じていた珊瑚にはありがたい状況だった。
しかし。
(何、あれ…?)
あんな豪邸に住んでたくさんのメイドに旦那様と呼ばれるくらいの男なのだ。
最初のおじさんみたいにいかにも社長と言った人が知り合いにいるのは分かる。
だが今群がっているあの若い娘たちは何だ?
あれはどう見ても社長ではない。
弥勒に秋波を送りまくるあの女たちはどう見ても彼の婦人の座を狙っているではないか。
まるで見せつけるかのように中庭から一番近い窓際で、女たちに囲まれて談笑している弥勒。
その状況がなぜか面白くない珊瑚だが、彼の表情が満更でもなさそうなのが一番気に食わない。
(あたし本当に必要だった…?)
そういえばこのパーティーは婦人を伴わねばならず、その婦人を競わせるとか何とか言っていたような気がするのだが。
(嘘ばっかり。)
友人同士の気軽な集まりだとも聞いた気がする。
あれもこれも嘘。
カメラを取り返してくれるという話も嘘じゃないかと思えて来る。
珊瑚はやるせなくなってぐいっとシャンパンを飲みほした。


珊瑚が中庭の隅で仏頂面で料理を食べていると、何やら急に騒がしくなった。
ちょっと離れた物陰から男女の争うような声がするのだ。
そっと近づいてみると、金髪碧眼(暗がりなのでそう見えただけかもしれないが)の美男美女がただならぬ雰囲気で言い争っている。
(修羅場…?)
しばらく口論をしていたが、埒が明かないとばかりに女の方がその場を離れようとした。
しかし、男がその腕を掴み離さない。
女の方は逃れようともがいている。
流石に事態の不味さに珊瑚が人を呼ぼうと身じろいだとき、揉みあった勢いで女が押し倒されてしまった。
一瞬動きが止まった二人だったが逆上した男が女の衣装に手をかけた。
さっきまで威勢のよかった女も恐怖を覚え、声が出ないらしい。
男が興奮したように荒げる鼻息が最高潮に達したときだった。

「はーなーせーー!!!」

一瞬何が起こったか分からなかった。
物凄い雄叫びが聞こえたかと思うと、次の瞬間には自分に覆い被さっていた男が姿を消したのだ。
女がのろのろと体を起こし、辺りを窺うと、さっきまで言い争っていた男と白いドレスを身に纏った華奢な黒髪の女が対峙していた。
「Who are you!?You won't get away with it!!」
「黙りな!この下衆男!」
男を睨みつけ、息を整える女―珊瑚のドレスのスリットからは綺麗な脚が覗いていた。
先ほどは珊瑚の華麗な飛び蹴りが繰り出されたのだ。
なおも興奮状態の男が、珊瑚に殴りかかろうとする。
しかし珊瑚はそんなものは余裕でかわす。
そして、ほろ酔いでちょっぴり気が大きくなっている珊瑚は、思いっきり男の頬に平手打ちをお見舞いしてやったのだった。

「Oh,my god...」
「ちょっとあんた大丈夫?」
珊瑚は、背後でのびている男を無視し呆然と座り込む女のもとへ近寄る。
女はあまりの出来事に状況が理解できず、気遣わしげに差し出された手の主を徐に見上げた。
途端大きく目が開かれた。
「え…っ!」
突然のことに反応が遅れた。
何者かに後ろから腕を回され目前に小ぶりのナイフを突き付けられている。
一気に酔いが醒めた。
流石の珊瑚も、刃物を前に身を固くするしかない。
ナイフを持っている手と反対の手で口を塞がれており思うように声も出せないし、相手は複数で、先ほどから興奮状態で会話がかわされている。
これでは犯人の腕から逃れられてもすぐ捕まってしまうだろう。
しかし、自分の前で震えて動けなくなっている女のもとへもその集団が近寄ろうとしたのを見て、焦った珊瑚は鋭利なヒールで思いっきり背後の男の足を踏みつけた。
パーティー会場に似つかわしくない質素な出で立ちの男の足元は無防備で、そのヒールがもろに効いた。
怯んで拘束が離れた隙に珊瑚は女のもとへ駆け寄り、かばうように前へ出た。
振り返ると、既に体勢を立て直した男が、大声で怒鳴り散らし、ナイフを持った腕を振り上げ突進してきた。
珊瑚は咄嗟に女を抱きしめると、思わず目を瞑った。

少しの沈黙が場を包んだ。
予想していた痛みがなかなか訪れないことを怪訝に思い珊瑚は恐る恐る目を開け、ゆっくりと振り返った。
「あ…」
そこには先ほどまでパーティー会場で談笑していたはずの弥勒が、ナイフを振り上げる男の、その腕を掴んでいた。
「何を…している?」
冷静な声音だが、その冷たい眼光は怒りを隠しもしておらず、犯人の男はすくみ上がった。
「私のフィアンセに手を出してただで済むとでも?」
そう言って腕を掴む手にさらに力を込める。
一見大して力を入れていなさそうな風体なのに、ものすごい力で握りこまれているらしく、犯人は痛みに堪えられずナイフを取り落した。
そしてそのまま腕を捻りあげられた。
「What happened!?」
「Miroku!」
「ボス!」
ようやく中庭の尋常ならざる空気に気づいたらしく、人がその場に集まってきた。

弥勒は、遅れてやって来た警備のものに犯人を引き渡し、いくつか指示めいたものを出すと、ようやく呆然と座り込んでいる珊瑚の元へやってきた。
「珊瑚…」
眉をひそめ、吐き出すように彼女の名を呟いた弥勒の顔は、先ほどまでの冷酷な怒りとも、社交の場で見せる大人の余裕とも違い、心底心配してくれているようで珊瑚の心がじんわり温かくなる。
そのまま珊瑚に腕を伸ばそうとした弥勒の動きを何者かが遮った。
「My dear!」
「え…」
「テレサ…」
見ると先ほど庇った金髪の娘が弥勒の胸に縋りついている。
弥勒は少々逡巡したようだが、優しく彼女の肩に手を置くと距離を取り、諭すように声をかける。
その様子が本当に絵になるのが何故か悔しくて珊瑚はそっぽを向いた。
(あれ、そういえばテレサって…)
どこかで聞いたことがある。
「…あ!本物の婚約者!」
思い出した途端大きな声をあげてしまった珊瑚を二人が振り返る。
弥勒はテレサに一言二言告げると迷わず、珊瑚の方へ向き合った。
そして座り込む珊瑚に接近すると無遠慮に、足を持ちあげた。
「ちょ、ちょっと!」
慌てて足をひっこめようとするがびくともしない。
「おまえ…怪我をしている身で無茶をしたそうだな?」
テレサから聞いたのだろうか。
「それほどでも…」
あくまで否定する珊瑚に小さく息をつくと、直後にやりと笑って、珊瑚が走った勢いで脱げてしまったピンヒールを手にとった。
そして傅くように彼女の前で体勢を変えると、そのヒールを彼女に優しく履かせてやる。
そのスマートな動作に瞠目し、じわじわと恥ずかしくなった珊瑚が息を詰める。
弥勒はそんな珊瑚の表情を楽しげに見つめながら、彼女の丸い膝にできた、小さな擦過傷にひとさし指の先をぴとりと当ててこう告げた。
「このスリット、役に立ったでしょう?」
飛び蹴りしたことに対する嫌味なのだろうが、そのまま隙間から覗く無防備な脚を愛しむように、スッと指を這わせられゾクリとした珊瑚は雄叫びをあげた。
無論、弥勒の頬に再び紅葉が彩られたのは言うまでもない。

昼間のスリもしかり、土地柄こう言った小競り合いは日常茶飯事で、何事もなかったように夜会は再開された。
「特にこれだけ大勢の人が、しかも土地の権力者や有力者が集まる場所は、ああいう盗賊には恰好の餌場なんですよ」
しれっという弥勒は、捻挫を悪化させてしまった珊瑚を会場の隅で休ませ自分もその隣でワインを飲んでいる。
先ほどは、慣れない珊瑚から目を離したせいで危険な目に合わせてしまったので、側についてくれるらしい。
もう離さないと無駄に真剣に言われたときのことを思い出し珊瑚の頬が熱くなる。
必要なところへの挨拶は粗方済んだので、好きでもない社交の場に参加しなくていいのは弥勒にとっても都合がよいらしい。
良い口実だと朗らかに笑っていた。

聞けば先ほど珊瑚に襲いかかってきたのは、この辺りを根城にする盗賊団だったらしく、今日も会場で悪事を働いていたところを見つかり、逃走中に折よく遭遇した珊瑚を人質にし、逃げきろうとしていたらしい。
昼間珊瑚からカメラを盗んだ奴らも同じ盗賊団の一味だったらしく、現在合わせて取り調べ中だ。
こういう土地では現行犯でないとなかなか逮捕まで至らないのが現状で、それを取り押さえられたのは幸運だったと言えるだろう。

傍から見ると赤ワインを飲みながら談笑するカップルに見えるのだろうが、珊瑚が飲んでいるのはブラッドオレンジのジュースだ。
酔うとまた無茶なことをしそうだと、弥勒にお酒を取り上げられたのだ。
その真っ赤な液体を睨んだまま珊瑚は、一番気になっていたことを聞いてみようと口を開いた。
「あの…」
「ん?」
「テレサさん…はどうしたんですか?」
「ああ…彼女は事情聴取だと連行されたな」
「そうじゃなくって…」
それは知っている。
珊瑚が平手打ちを決めたお陰で近くで伸びていた男も念のため警察が聴取したところ、女を襲おうとしていたことや、他にもきな臭いことが出てきたらしい。
その場で逮捕、そして参考人として彼女の方も連れて行かれたのだった。
「ああ。あの男と彼女の間は何か訳ありのようでしたし。近頃連絡がつかなかったのも何か関係あるだろうな」
大して興味なさそうに呟くと給仕が持ってきた料理に手をつける。
「でも…婚約者なんじゃ?」
「いや、あれは彼女が勝手に勘違いして言いふらしたのを周りが鵜呑みにしてしまって。私としても今夜のようなタイミングにはそういう相手がいたほうが都合がいいこともあるし、あえて噂を消さなかったんです。」
「…ふーん」
金持ちの考えることは庶民には分からない…と思う一方珊瑚はなんとも言い難いもやもやを抱えていた。
(所詮わたしも都合がいいだけの女…だよね)
はぁ…とため息をつくと、不思議そうに弥勒が覗き込んできた。
何かを考え、瞳を俯かせてしまった珊瑚の口元に柔らかいものが押し付けられた。
弥勒がフォークに刺したテリーヌをぐいぐいと押し付けてきたのだ。
珊瑚はぎょっとするも微笑みながら動きを止めない弥勒にどうすることもできず、仕方なく口にいれた。
「…おいしい」
「でしょう?珊瑚も今日はいろいろあって散々だったでしょうから、せめて美味いもの食べて元気を出してください」
口先だけじゃない気遣いを感じ、素直に頷いた珊瑚は頬を緩ませた。

ゴーン ゴーン

教会の鐘が鳴る。
「ああ、ようやく終宴だ」
「え…」
「これから主催者の締めの挨拶があり、あとは自由解散です。皆ほろ酔いですし、聞かず帰っても誰も気に留めないだろう。」
弥勒はさっと立ち上がり、珊瑚を立たせようと、そっと手を差し出した。
彼女はそれを困惑した表情で見つめている。
「どうした?」
「…もう、帰る、の?」
「帰りたくなくなったか?」
たいへんな目に合わされて彼女も早く休みたいだろうと思ったのだが、意外な反応に弥勒はきょとんとしてしまう。
「だって…」
これで自分はお役御免だ。
ここを離れたらもう会えなくなるかもしれない。
いまだ鳴り響く鐘の音は、魔法が解ける合図のようだ。
「珊瑚」
囁くような呼びかけに、落ち込んでいた珊瑚はおずおずと顔をあげた。
弥勒はずれてしまった珊瑚の頭部のティアラを直してやりながら告げた。
「もしよければ、この後のバカンスの時間も、私にくれませんか?」
「え」と小さく声をあげ、紅潮させた頬と白いドレスの鮮やかなコントラストが闇夜にやけに眩しかった。



*******


「あのお嬢さんかね?」
邸宅に帰り、シャワーを浴びダイニングルームに入ると、背後から声をかけられた。
そこには、豊かな白髭をたくわえ、でんと腹の出た老人が付き人とともに立っていた。
昼間、珊瑚を診察した医師だ。
「…ここは私に与えた別宅でしょう?勝手に入ってこないでください、ドクター夢心」
弥勒は不機嫌を隠さずにその老人―夢心を軽く睨んだ。
しかし夢心は気にも留めずに話を続ける。
「お前がパーティーを抜け出して勝手に帰るからだろう」
「…」
「見定めると言っとったろう。お前が連れてくるのはテレサ嬢と聞いていたが」
弥勒は、帰宅するなり珊瑚がメイドに嬉しそうに連れていかれたバスルーム(もちろん弥勒が使ったシャワールームとは別)の方向に一瞥をくれる。
「テレサには男がいました。例の一味とも繋がりがありそうでしたし、もう金輪際関わりませんよ」
そう言って肩を竦めるがたいして堪えた様子はない。
「ほぉ。まぁそれはそれでじゃの。あのお嬢さんじゃが、なかなか良いと思うぞ」
「は?彼女は、ただの旅行者だぞ」
呆れたような声音で弥勒が夢心を睨みつけた。
「報告は受けとる。見ず知らずの他人を助けるために己を投げ出し勇敢に立ち向かうなど、なかなかできることじゃない。見た目だけじゃなく、心も美しいお嬢さんじゃないか」
「それは否定しませんが…」
「まぁ婆さんは認めんじゃろうが、儂は見込みのあるお嬢さんじゃと思うよ。」
「…」
「今日は帰るでの。あとは若いもん同士でゆるりとすればよい。」
そう言って意味ありげに笑うとドクター夢心は踵を返した。
「…あ!クソ医者!」
「その呼び方はやめんかい。…なんじゃ」
不服そうに振り返った夢心に、弥勒は平静を装って告げた。
「結局、無茶をさせて脚を悪化させてしまった。また見てやって欲しい。」
「ふぉっふぉっ。分かっとるよ」
夢心はにやりと嫌な笑みを浮かべると、孫のような存在である弥勒を優しく見つめた。



*******


しばらくオフだという彼は、約束通り珊瑚のバカンスに最終日まで付き合ってくれた。
何となく飛び出し、予定の決まっていなかった珊瑚にとって、言葉や交通手段の心配をせず旅行ができるのは正直助かる。
しかも彼のプランにはまったく無駄がなく、的確に観光地を押さえつつ、地元民しか知らない穴場にも連れていってくれ、それでいてゆとりもあるので怪我を負う珊瑚でも無理なく楽しめた。
それに何より、そよ風のように柔らかく微笑む彼と一緒に過ごせるのが楽しく、離れがたいと思ってしまう。
しかし時間は無慈悲にも過ぎ、珊瑚の帰国する日になった。
弥勒は当然のように空港まで見送りに来てくれた。

出発時刻ぎりぎり。搭乗ゲートにて、珊瑚はもう何度目かになるため息をついていた。
そこで、かかってきた電話に出たまま席を外していた弥勒が戻ってきた。
「なんとか間に合った!」
「それ…!」
弥勒がかかげていたのは、旅行初日に盗られた珊瑚のカメラ。
「盗賊団の供述から行方を追って、漸く昨日見つかったらしい。今届いた。」
警察の捜査にまで介入しているらしいことを匂わされ、本当に何者だと思うが、あえて聞かない。
「ありがとう…ございました」
「いや…ただちょっとメモリーに損傷があったらしく、データは消えてしまっているようです。」
珊瑚は一瞬残念そうな表情をしたが、すぐに微笑みを浮かべた。
メモリーには社員旅行やら会社行事やら、好きだった先輩との思い出が入っていたのだが、全部さようなら。
これでよかったのだと思う。
「本当にありがとうございました。」
深々と頭を下げた珊瑚の肩に、弥勒の手が置かれゆっくりと顔を上げさせる。
彼女と目が合うと一転、真剣な表情を浮かべて、問うた。
「…変われたか?」
珊瑚は目を見開き、少し考えると迷いのない口調で答えた。
「…私自身は何も変わらないけど、気持ちに踏ん切りはつきました。前に進めそうです。」
「いや、変わったよ」
「?」
きょとんとする珊瑚に不敵な笑みを浮かべた弥勒は彼女を抱き寄せて耳元で囁いた。
「見違えるほど綺麗になった」
そしてそのまま耳にちゅっと口づけるとすぐさま体を離した。
にっこり笑って「ではまた」と告げると、あっさりとその場を去ってしまったのである。
あまりの出来事に一瞬固まっていた珊瑚は、はっと我に返り、得意の平手打ちをお見舞いできなかった代わりに慌ててその爽やかな後姿を持っていたカメラで撮影してやった。



*******


「最近ため息多いね」
「なになに、新たな恋?」
「こないだ傷心旅行いったばっかなのに?」
「やめてよ。そんなんじゃないってば」
会社の同僚に揶揄されるたび珊瑚は恥ずかしくなるのだが、あのとき撮った後姿をスマホに移し、見返してはため息をついているなど、その女々しさがさらに羞恥を誘う。
「あ、そう言えば今日から新規取引先さんが研修に来るらしいよ」
「研修?なにそれ」
「何かもともと海外を拠点に、家具とかやってる日本企業がデザインがおしゃれって話題になってて、家具以外にも新規事業を始めたいらしいんだけど、手始めにうちのファッション部門と手を組みたいって言ってるらしくて」
「何でそんな話題の企業からこんな小さなメーカーに声がかかるわけ?」
「さぁ?」
やいのやいのとOLらしく始業時間までおしゃべりをしていると、不意に空気が変わった。
そこに部長が、会社では見慣れない長身の若い男を連れてやってきた。
あれが、噂していた取引先の…?

がたがたがた

椅子の倒れる音が大きく響き、その音源に注目が集まる。
そこでは珊瑚が目を見開きパクパクと口を開閉していた。
彼女の視線の先には件の男。
「な、何であなたが…」
ようやく絞り出された声に、男は鷹揚に微笑んでやると、周囲を見渡し挨拶をした。
「このたび、お世話になることになった、ドリームハートコーポレーションのMIROKUです。日本人ですが海外生活が長かったので何か不手際があったらすみません。気軽に名前で呼んでください。」
見目麗しい若い男の登場に女子社員たちが色めき立つ。
騒然となるオフィスの空気を気にすることなく、弥勒と名乗った男は、固まったままの珊瑚の傍に寄った。
そして、耳元で殊更甘い声で告げた。
「『また』、と言っただろう?」
徐々に体が熱くなる。
羞恥と、これからへの期待に震えた珊瑚は、泣き笑いのような表情で、渾身の平手打ちを繰り出した。
周囲のどよめきなんて耳に入らない。
本当のシンデレラストーリーはここから始まる。






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