「わー」
かごめの口からため息にも似た歓声が漏れる。 目元に涙を溜めるほど感動し、うっとりとその光景に見入っている。
「ほぉ。これはこれは」
弥勒もその隣で感心して一人頷いている。
「妙に暑くなったと思ったらこんなところに温泉が湧いていたんだね」
さして感心した風もなく、珊瑚が冷静に呟く。
彼らの眼前には、先が見えないほど大きな温泉が広がっていた。



湯けむり (前篇)



「おらが一番乗りじゃ!」
七宝が、全く興味を示さない犬夜叉の肩から飛び降り、衣服を脱ぎすて、目の前の温泉に飛び込んだ。
「気持ちええのう。ぼーっとしとらんで、みんなも入ったらどうじゃ?」
「では、珊瑚一緒に入りましょう」
弥勒が珊瑚の右手を掴むより早く、かごめが珊瑚の左手を引く。
「あの大きな岩の向こう側、あっちを女風呂にしましょう?」
覗くんじゃないわよとかごめの笑顔が弥勒を牽制する。
そうしてかごめはさっさと珊瑚を連れ岩陰に消えて行った。

「はー…野郎だけでつまらんが、我々も有り難く自然の恩恵を頂戴しましょう。」
「俺はいい。」
「…前々から思っていたがお前は、温泉や風呂を好まんな」
「湯なんか浸かって何が楽しいんだ。これだから人間の言うことはわかんねーよな。」
しかし弥勒は犬夜叉の言を無視して、温泉に足を入れた。
「これはちょうどいい湯加減だ。湯気が立ち込めているからもっと熱いものかと。犬夜叉、これならお前でも入れるぞ。」
「だ、誰が熱いから入らないと言った!」
「しかし不思議だな。猫は熱いものが苦手だと聞くが、犬はむしろ湯などで体を清めたがるものだと…」
弥勒は言いながら肩まで温泉につかった。
「犬呼ばわりすんな!」
「しかし苦手ならしょうがない。私は七宝とゆっくり湯を楽しみます。」
「だから苦手じゃないっつってんだろ!」
「ではなぜ入らないんですか」
「うっせーな。お前がそこまで言うんなら入ってやるよ!」
「無理しなくていいですよ。」
「無理じゃねぇ!」
そう吐き捨てると犬夜叉は乱暴に衣服を脱ぎ、恐る恐る湯につかる。
「ほら見ろ。ちゃんと入れるぞ」
「体が赤いですよ。大丈夫ですか?」
「赤くねー!気のせいだ。」
「はいはい。倒れる前に出てくださいね。裸の男の看病などごめんですからな。」
「けっ」

「そういえば、七宝が見当たりませんね」
そこで漸く自分たちが押し問答している間に、先陣していた七宝の姿が見えないことに気づく。
ちなみに雲母は見張り番という体で、荷物のそばで丸くなっている。
「熱くて出ちまったんじゃねぇのか」
「七宝の着物があります。まだ出てはいないでしょう。」
弥勒は温泉の縁のそばで脱ぎ散らかされたままになった童用の着物を指さす。
しかし、犬夜叉は七宝の臭いが分からないほど熱さにやられているのだろうか?
「もしや、女子と一緒に入っているのではあるまいな?」
弥勒は眉をひそめて言った。
「かもな」
「こうしてはおれん!珊瑚たちを救わねば!」
「救うってお前、ガキなんだからいいだろ」
「七宝だけずるいです!」
「七宝が女どもと風呂入るなんていつものことだろーが。」

ざぶざぶ

「…おい、てめぇ何してる?」
「様子を伺おうかと…」
なおも、大きな岩―の裏側の女湯―に向かって歩を進める弥勒。
「待ちやがれ!覗く気だな!」
「早い者勝ちではないのですから、焦らずとも…」
「ちげー!」
「あ、珊瑚の裸は見るなよ?」
「だから、ちげー!!」
そこから、弥勒と犬夜叉の熾烈な戦いが始まるのである。


一方、女組は。
「ん?何かあっち騒がしいわね?」
「喧嘩でもしてるのかな」
「なんだかんだ言って仲いいわよね、あの二人」
「そうだね…」
そこで、珊瑚が湯からあがった。
「珊瑚、もう出るのか?」
「うん逆上せそうだから」
微かに珊瑚の頬は上気しており、暑いのだろう。手でパタパタ仰いでいる。
「かごめちゃんは?」
「折角だからもうちょっとゆっくりしていくわ。七宝ちゃんはまだ平気よね?」
「おう。おらは温泉、大好きじゃ」
戦国時代ではめったに風呂などありつけないため、ゆっくり堪能したいらしい。
しかし、珊瑚からすれば、逆に風呂が珍しいからこそ、慣れない熱さに早々に限界が来たようだ。
「じゃああたしは食事の準備でもしとくよ」
「ありがとう、珊瑚ちゃん」
そして珊瑚は小袖に着替え、歩いて行った。

荷物のある場所にたどり着く手前、珊瑚は脱ぎ散らかしたままの着物を見つけた。
「これ七宝の…」
手前の男風呂から入った七宝は今、岩の横をすり抜け女風呂にいる。
湯からあがったとき、すぐに着物が着られないのであれば風邪をひくかもしれない。
「持って行ってあげた方がいいかな…」
そう思い珊瑚は七宝の着物を簡単に畳んだ。
そしてそばにもう一着脱いだままの着物を見つけた。
「もう犬夜叉までだらしない。」
呆れながらも、ついでに畳んでやる。
男どもの姿は湯気で見えないが声が聞こえるので、奥の方にいるのだろう。
法師さまのは…
くすっ
「丁寧に畳んである…」
一揃いきれいに畳んである法衣を見て、なんだか誇らしい気分になる。
他の二人とは違い、几帳面な法師。

珊瑚は法衣をそっと手に取ってみる。
「柔らかい…」
仄かに立ち上る抹香の香りに胸がときめく。
思わず、法衣に顔をうずめた。 幸福感に満たされる。
いつか法衣だけでなく、法衣を着た法師さまに顔をうずめたい…
「って何考えてんの!」
恥ずかしさに勢いよく顔を上げる。
そして周りに誰もいないことを確認し、安堵すると、ちょっとした好奇心がわいてきた。
「着てみたい…」
もう一度周りを確認し、墨衣をじっと見つめた後、珊瑚は徐に小袖の上からその墨衣を羽織ってみたのだった。
「ふふ…大きい…」
その墨衣は珊瑚の体をすっぽり覆い、袖は指先が見えるか見えないか、裾に至っては長くて下についてしまっている。
大きな法師に包まれているようで珊瑚は嬉しくなった。

が。

「何してるんですか」
「―!」
目の前に、犬夜叉を担いだ弥勒が現れたのであった。
幸い、彼らは温泉につかった状態で、湯気が立ち込めているので全身が見えることはなかったが、二人とも裸であることには違いない。
「い、い、いつからいたの!?」
「さて、いつからか…」
考え込む弥勒の口元に嫌な笑みが浮かんでいるのを見て、珊瑚はここに来てからの数々の(珊瑚にとっての)破廉恥な行為を思い出す。
「それはさておき、このままでは犬夜叉が気の毒なんですが」
「え、あ、えーと?」
混乱していて意識しなかったがそういえば犬夜叉は大人しく弥勒に担がれている。
そしてびくともしない。
弥勒の態度からして死んでいるわけではなさそうなので、気を失っているのだろう。
一体、風呂の中で何してたんだ。
「では失敬して…」
よっこらしょ
そのまま上がってこようとする弥勒をぼーっと見ていた珊瑚だが、重要なことに気がついた。
「…って、ええええ!?」
「なんですか」
「は、裸のまま上がってくるなー!」
慌てて弥勒を温泉に押し戻そうと一歩前進した珊瑚だったが、自分が大きすぎる墨衣を纏っていることを失念していた。
「や、きゃー!」
「うお!珊瑚!?」

ざっばーーん

哀れ、珊瑚はその墨衣の裾を踏んで躓き、巻き込まれた法師とともに温泉に落下したのであった。
「ぷはぁっ…大丈夫か!?」
弥勒は一瞬沈んだがすぐに体勢を立て直し腕の中の珊瑚に声をかける。
転落の瞬間、担いでいた犬夜叉を放り出し、倒れこんでくる珊瑚を抱きとめることを選択したのだった。
もちろん、珊瑚大なり犬夜叉である。
おかげで、法師は温泉の底で背中を軽く打ったが、珊瑚はかすり傷どころかどこもぶつけることなく彼の胸の中に着地したのである。
「ご、ごめん!法師さま…」
「いえ。それよりお前、怪我はないか?」
「大丈夫…法師さまが受け止めてくれたから。」
しかし表情は大丈夫ではなさそうである。
「どうかしました?」
「ごめん…コレびしょびしょにしちゃった…」
「あぁ気にするな。」
「でも…」
珊瑚は申し訳なさそうに弥勒を見やる。
弥勒は嬉しそうに珊瑚を眺める。


「ごほっごほっ」
落下の(放り出された)衝撃で犬夜叉は覚醒した。
「なななな何だ!?」
弥勒と覗き談義をしている間にすっかり逆上せあがった犬夜叉はいきなり意識を失い、そこからの記憶がない。
さらに意識が戻って最初に目に飛び込んできたのが、裸の弥勒とさらに彼に乗り上げた墨衣の珊瑚が見つめあっている(しかも湯の中で)何とも艶やかな図となると混乱の極みである。
しばしおもいみ た結果、とりあえず邪魔をしてはならないだろうという結論に至り、温泉からあがることにした。
その様子に弥勒が気付いた。
「犬夜叉、すまん」
「いや、気にすんな」
「そうではなくて、頼みがあるんだ」
「頼み?」



岩の向こうから、男性陣の言い争いが聞こえてきた。
というより怒声を上げているのは犬夜叉だけのようだが。
が、その怒声がいきなり止み、呼びかけるような弥勒の声だけが聞こえるようになった。
「どうかした?」
「おぉこの声はかごめ様。近くにいらっしゃるのですね?」
「うん。弥勒さま、何かあった?」
「犬夜叉に緊急事態です。そちらに行ってもいいですか。」
「だめ」
「…」
「犬夜叉、どうしたって?」
「…逆上せただけです。担いで湯から出しますのでご心配なく。」
「まぁ。お願い。」
もうしばらく浸かっていようか悩んだが、犬夜叉が心配になったかごめも出ることにした。
かごめは制服を着て、七宝をタオルでくるんで抱き上げ、荷物のある場所に戻った。
ちょうど三人が湯からあがるところだった。
…三人?
「…って珊瑚ちゃん!?」
「か、かごめちゃん!」
二人の男はいそいそと着替えを始めた。 珊瑚は所在なさげに俯いたまま固まっている。
かごめは珊瑚の奇妙な出で立ちと行動を怪訝に思ったがじーっと彼女を見つめた後、なんとなく事態を把握した。

結局、夕餉の用意はかごめが行った。
しかし、かごめが文句を言うことはない。 むしろ嬉しそうである。
その不敵の笑みを不思議そうに見つめる七宝と雲母は、火を囲んで座るかごめ以上に特異なその他の仲間たちを見回しさらに首をかしげる。
焼き魚を無言で貪る犬夜叉は、すでにデフォルトとなった火鼠の皮衣を着ていない。筒袖のみである。
その隣で、竹筒の水を飲んでいる弥勒はいつもの法衣姿ではなく襦袢のみだ。
彼の対角線上で、一言も発さず、食事に手もつけずひたすら俯いている娘は、もはや自分の着物は一切纏っていない。
犬夜叉の衣を着ているのは珊瑚だった。それを上半身にまとうのみで、下半身にいたってはほとんど何も着ていない。
裾はかごめのすかーとよりも短いのである。
七宝はこの格好に見覚えがあった。桃果人と対決したときのかごめもこんな着方をしていた。
「のう雲母、今宵は仮装大会なのか?」
「みゃあ」

火からあまり離れないところに立つ二本の木の間に退治屋の衣装の右肩に納められていた縄が渡されている。
その縄にひっかけられた着物たちが、夜風に揺れていた。



(後篇)




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