※雲母、擬人化注意。
※拙宅、『二番目の恋人』の設定を汲んでいます。(こちらを読まなくても大丈夫な内容です。)






揺れる尻尾と黄金の結晶


「珊瑚ぉーーっ!」
「ん?」
双子の娘たちの手を引き、生後間もない息子を背負い我が家に上がろうとしていた珊瑚が、己の名前を呼ばれて振り返ると、白く輝く男が物凄い速度で走ってくる姿が見えた。
あっと思う間もなく目の前に現れた男は、勢いのまま無遠慮に抱きついてきた。


「珊瑚、元気してたか?お!ちびたちもでっかくなったな!」
旋風のような風圧に耐え、何とか踏みとどまれたのは大事なわが子を背負っているという母親としての自我の成した業だろう。
それほどまでにその男の勢いは途轍もなく、まさに猪突猛進と言えた。
「こら、待てって!」
男に絡まれる直前に手を離して、逃がした娘たちが母親と見知らぬ男の抱擁を見て目をぱちくりさせていると、少し後から一人の少年が追い付いてきた。
「にいに!」
「こはくにい!」
双子は少年に目を向けると嬉しそうに声を上げた。
「二人とも、久しぶり。」
少年―琥珀はきゃっきゃっと寄ってくる姪たちに笑顔を向け、そしてすぐ姉に視線を移し苦笑を浮かべた。
「姉上…すみません」
「琥珀、いったい何が…」
珊瑚は呆れた顔を弟に向け、己に抱きつく男を引きはがそうと手をかけた。
「分かったから…少し離れてくれる?―雲母」
そう、白い髪と二本の尻尾を揺らし、しなやかな肉体を披露するこの男が、珊瑚の元相棒で現在は琥珀と旅をしている、猫又なのである。


「妖猫の里?」
くっついて離れない男を、仕方がなく引きずるようにして家に入り、珊瑚と琥珀は何とか腰を落ち着けた。
久しぶりに弟が顔を見せたのだ。
せめてお茶でも出してもてなしたいのだが、何せ己に纏わりつくように絡んでくる男が邪魔でお茶の用意すらできない。
「うん。もともと化け猫が多く住み着いていた場所に、そうと知らずに後から人間が移住してきて栄えた場所なんだって。 人々は化け猫に食べ物を分け与え、その代わり化け猫たちは畑を荒らす獣を駆除したりして、つまり、今まではうまく共存していたらしいんだけど。」
「けど?」
弟の話を興味深げに聞いている珊瑚の膝元にすり寄る男―雲母のふさふさの尻尾を、双子の娘たちが興味津々に見つめている。
もともと犬夜叉の耳や、七宝の尻尾が大好きな娘たちだ。
「だけどある時から、猫たちの一部に狂暴なものが現れて、人間に危害を加えるものも出てきたらしいんだ。」
「それでお前に用命が」
「たまたま通りがかっただけだったんだけどね。やっぱり同じ猫の気配を感じたからなのか、雲母が反応しちゃって」
くすり、と笑う弟の表情はまだどこかあどけない。
そしてその時の雲母の、物言わぬ代わりに視線や鳴き声で己の意思を伝えようとする姿が容易に想像され、珊瑚も思わず膝元で大人しくしている男をひと撫でしほほ笑んだ。
「で、化け猫たちは鎮められたの?」
「それが、狂暴化の原因だと考えられるのが、代々祀られてる祠が壊れていたことだろうってなって」
そこで、琥珀が眉をひそめ困ったような表情をする。
「でも俺どうしたらいいか分からなくて、とりあえず義兄上にもらったお札を壊れた祠に貼ったんだ。そしたら、狂暴化は治まったんだけど」
「へぇ」
夫の法力が妖怪退治に一役買ったと知り、珊瑚は少し嬉しくなる。
「それで…」
「で、何故雲母がまたそのような姿に?」
琥珀の話を不機嫌そうな声音が遮った。
「法師様!」
「ちちうえー!」
「おかえりー!」
仕事先から帰宅し、居間に入ってきた弥勒は、ふかふかの毛と遊んでいる娘たちの愛らしさに一瞬表情を緩めるも、直後にそれを険しくし、その毛の持ち主を見やった。
「あ、義兄上お久しぶりです!」
「息災そうで何より。で、琥珀、何故私の妻の膝で私以外の男が眠っているんです?」
言葉を変え、先ほどと同じ質問を繰り返す弥勒に、姉弟は思わず目を見合わせてしまう。
「それは…」
「んー、あ。弥勒!」
珊瑚の膝に夢中だった雲母が、ようやく弥勒の帰宅に気が付くと、嬉しそうに飛びついた。


雲母が弥勒に絡んでいる隙に珊瑚は茶の用意をし、赤子の世話を焼く。
妻が絡まれるよりましだと諦めた弥勒は、猫の姿の時と同じように肩によりかかる雲母を受け入れていた。
琥珀は苦笑しながらも続きを話す。
「それが、お礼に食事をいただいたんですが、それを食べた瞬間雲母がこんな姿になっちゃって」
「何か、変な薬でも入れられていたの?」
珊瑚が心配そうに眉を寄せる。
「いや、恐らくだけど土地が化け猫の妖力を貯めていて、その土地で育った作物にも妖力がこもっていて、妖猫である雲母の妖力を高めてしまったんじゃないかって、里の長老が言ってた。普通の猫もあの里のものを食べれば化け猫になることもよくあるんだって」
「琥珀も土地のものを食べたんだろう?大丈夫なの?」
「猫の妖力だから、猫に強く反応するだけだと思うよ。どちらにせよ、俺は妖怪には慣れてるし…」
「それならそうと先に言っておいてほしかったものだな。して、どうすれば雲母は元に戻る?」
「…実はそれが分からないから、助けてもらいに来たんです。祠も壊れたままだし。…義兄上、姉上、力を貸してくれませんか?」
可愛い弟たっての願い、どうにかしてやりたいと奮起した珊瑚は、夫が渋い顔をしていたのを全く見ていなかった。


「珊瑚、何故ついてきたんです。」
化け狸・八衛門の背に乗り、弥勒、珊瑚、琥珀、雲母の四人は妖猫の里へと向かっていた。
一番後ろに陣取った弥勒は隣に座る珊瑚に声をかけた。
「だって、琥珀と雲母の一大事だよ、心配じゃないか」
「私だけでも十分でしょう。子供たちを預けてまで来なくったっていいだろう」
わが子を預けに行ったときのかごめの顔を思い出してため息がこぼれる。
雲母が再び人間化したことを知ったかごめは、また面白いことが起こるだろうと期待を寄せた笑みを浮かべていたのだ。
(まったく面白くないのだがな。)
「たまにはいいじゃないか。雲母と喋れる機会なんてそうそうないんだし」
弥勒が不機嫌な顔を向けると、前方から声がかかった。
「あそこです!もう間もなく到着です」


「なるほど、これはなかなか…」
壊れた祠を見て、弥勒は眉間にしわを寄せた。
「何者かの悪戯か、獣の仕業か…化け猫たちが守っている土地なので後者の可能性は低いかもしれませんが…とにかく、祠を建て直し、神に祈祷するしかありますまい」
お札一枚では、いつまでもしのげるものではありませんので。と弥勒は続けた。
「して、今回の仕事。いかほどで?」
「は?」
祠を検める法師の様子を眺めていた里長が怪訝な顔をする。
営業用の笑顔で弥勒が追い打ちをかける。
「聞けば、義弟は狂暴化した猫から里人を助け、応急処置とはいえその狂暴化を鎮めたそうではないですか。」
「はぁ。まあ」
「礼にと言って頂いた食事で、相棒の猫又は姿かたちが変えられているし。」
わざとらしく大きく首を振ると、里人は困ったようにひそひそ話を始めた。
渡すものがないというよりは、この胡散臭い法師にことを任せても大丈夫なのかというところが論点らしい。
慌てて琥珀が割って入る。
「お礼は、無事問題が解決してからでいいですから!義兄は、こんなですが、腕は確かですので!」
取り繕ったはずの台詞が、義兄に対してたいへん失礼な内容であることは、焦っている琥珀は気づかない。
後ろで控えている珊瑚と雲母が肩を震わせていた。

「祠が壊れて猫たちが狂暴化したということは、祠におわした神様が猫たちを制御していたということなのだろう。」
「法師様のお札でいったんは治まってるじゃないか。法師様の力で化け猫たちを抑えているの?」
「私の力ではなく、御仏の力で、ですよ」
琥珀は顔をあげ義兄をチラリと見た。
常々自信過剰に感じる弥勒も、法師としては意外にも謙虚である。
こんな場面に立ちあうと琥珀はいつも義兄に尊敬の念を抱くのだ。
「何にせよあの祠には霊力のようなものは感じなかった。祠が壊れて神様が出て行かれたのでしょうか。」
弥勒が悩む素振りを見せると、それまで大人しくしていた雲母が急に唸りだした。
「どうした?」
雲母はある一点を睨み付けている。
皆が不思議そうにその方向を見ると、その茂みがごそごそ動いた。
一同に緊張が走る。
(神か?化け猫か?)
固唾を飲んで見守っていると、突如大声が響いた。
「よいしょ〜〜っ」
茂みから這い出てきたのは、体中傷だらけで頬に大きな傷跡のある、いかつい男だった。
その男はゆっくり起き上がり、肩を回している。
やがて固唾をのんで見守る一行の視線に気が付いた男は、此方にずんずんと近づいてきた。
雲母が皆を守るように前へ出て、威嚇を続けている。
構わず傍まで寄ってきた男が、腕を振り上げた。
「!」
「まあまあ。落ち着けや坊主」
「坊主?」
そのまま雲母の頭にぽんっと手を置いた男はにかっと笑って立派な犬歯を見せたのであった。


「神の使い?」
いかつい男は虎次郎と名乗った。
琥珀が、自分たちは里人に頼まれた退治屋であることを告げると、男は躊躇なく自分の身分を明かした。
あんたが?といかにも疑わしそうに珊瑚が虎次郎を見ると、少し照れくさそうに笑った。
「こんななりをしているが、一応、な」
「それで、神様はいずこに?」
「俺も探しているんだが、なかなか見つからなくて…」
「隠れてしまったの?」
「かもな。あるいはどこかで迷子になっているのか…」
「神様が、迷子に?」
「ああ、神は甚大な力を持っているが、祠から出ると力が弱っちまうんだ。だから俺が守ってきたんだが…」
虎次郎ははぁ、と後悔の滲む溜息をついた。
「何故祠は壊れてしまったんでしょうか?貴方のような屈強な使いが守っていたというのに」
「ああ、いや…」
虎次郎はきまり悪げに目をそらした。
「何です」
「いや、実は、俺が神を怒らせちまって…」
「は?」
「ちょっとした喧嘩、みたいなもんだったんだが。怒った神が暴れて祠を壊して出てっちまったんだな」
はは…と情けなく笑う男に、皆が呆れたような表情になった。
「とにかく、早いこと神様を探さないと。力を使えないで迷子になってるんだろ?何か起こったら大変だ。」
「そうですね。で、虎次郎さん。神様はどのようなお姿をされてるんですか?」
「ああ…恐らく、仔猫の姿をしているはずだ。」
「仔猫?」
「だから、普通の人間にゃあ区別はつかんだろう。だが坊主、お前には分かるはずだ」
坊主、と呼ばれて雲母が目を見開いた。
「おめえ猫又だろう。」
「雲母、分かる?」
珊瑚が心配そうに雲母に尋ねた。
「…どうだろうな」
「会ったら絶対分かる。だから、俺と坊主で分かれて探索しよう。」
頼むぜ、と虎次郎は雲母の肩を景気良くたたいた。


「はぁ〜何で私が留守番なのでしょうか…?」
弥勒は、里の者が急ピッチで祠を建て直しているところを眺めていた。
祠が完成しないことには、神様が見つかっても帰ってくる場所がない。
「仕方がないでしょう。我々では探せないのですから。それに法師様には祠が正しく再建されるか監督していただかないと。」
そう言って、お茶を差し出してくれたのは若い娘だった。
その娘の法師を見つめる視線に色が乗っていることを、彼はもちろん気が付いている。
普段なら柔和にほほ笑むところだが、今の状況がどうしても納得できない法師は、常の態度をとることができない。
妻と若い男(雲母)がともに行動しているのが気に入らないのだ。
「何をそんなむすっとなさって…」
「いえ、別に…」
怪訝そうにしている娘は、神様の眷属のものだという。
この娘の他にも眷属は数名おり、当然神様を探し回ったが、見つけられなかったそうだ。
神様は見つからないし、化け猫たちは狂暴化するし…
下位の眷属たちは神様の力で人との交流を図っていたため、神様の力がなくては人に助けを求めることもできなかったようだ。
今弥勒が普通に会話できるのは、彼が相当な法力を持ち合わせているためである。
「人と会話できるのは、虎次郎様だけだってのに、なんでか嫌がってね。まあようやく皆さんに協力を要請したようで安心しました。」
ふふっと妖艶に笑った娘の、愛らしい猫耳が揺れたが、弥勒の眼中には全く入っていなかった。


「雲母、神様の気配とか感じる?」
「ぜーんぜん」
「困ったなあ」
こんな広い場所から一匹の仔猫を探し出すのは至難の業である。
仔猫が迷い込みそうな狭い隙間や、屋根の上なども覗いてみるが見つけられない。
「な、珊瑚。休憩しようぜ!」
普段真面目で忠実に思う猫又も、人型のときはどうも子供のような幼さを感じる。
単に人間の仕草や言語を理解しきれてないが故かもしれぬが。
珊瑚は苦笑しながらその提案に応じた。
里はずれの崖の傍に設えられた茶屋の椅子にこしかけ、茶と団子で一服する。
意外にもその支払いは雲母が済ませてくれた。
「どうしたの?そのお金。」
「人間になった時に琥珀が持たせてくれた。いつも助けてるお礼だって。」
そう話す雲母は心底嬉しそうに笑っている。
もちろんお礼の意味合いもあったが、実際のところは人間の姿で何かあっては困るというのが大きな理由なのであるが。
彼の心からの笑みに、絆された珊瑚は、気になっていたことを聞いてみた。
「ねぇ、雲母。琥珀はどう?ちゃんとやれてる?」
「何が?」
「妖怪退治の仕事。…思いつめたりしてないよね?」
珊瑚の心の機微には敏感な雲母だ。
贖罪のために一人で妖怪退治の旅をしている弟のことが心配でたまらない彼女の意を酌んだ。
「心配するなよ。里に居たころの琥珀とは大違いだよ。」
「本当…?」
「あれから、数えきれないほどの妖怪を退治したんだぜ。」
人外である雲母が嘘をつくという芸当を披露するはずもないので、その誇らしげな台詞は誠なのだろう。
「一人で心細くないかな。」
彼女でさえ回数は減ったとは言え、いまだにあの悪夢を思い出して眠れぬ夜があるのだ。
当事者である琥珀が平然としてはいられないだろう。
「一人じゃない。俺がいる。」
力強い回答に思わずその顔を見上げる。
「珊瑚を守る役目は弥勒に譲った。これからは琥珀を守るのが俺の役割だ。」
「雲母…」
「それに、妖怪から救った人たちの感謝の言葉や笑顔が琥珀の支えになってる。琥珀はどんどん強くなってる。」
「うん…」
絞るように声を発し、人の親にもなって涙を見せるわけにはいかないと、顔を俯ける。
気を遣ったのか、雲母がそっと抱き寄せてくれた。
珊瑚は遠慮なくその胸に頬を預ける。

「お客さんがた、仲がよろしいことですネ〜。」
しばらくそうしていると、背後から羨むような、はたまた恨みがましいような声音が聴こえた。
振り向くと茶屋の娘が、突っ立っている。
湯呑を下げに来たのか。
「ああ、すみませ…」
「お代わりいかがですカ?」
ああ、お茶のお代わりを持ってきてくれたのか、と得心し頷いた。
空の湯呑にお茶を注ぐと、その娘も徐に腰かけた。
「あの…」
「仲直り、ってどうやったらできるのかしらネ…」
珊瑚が怪訝そうにその娘を見つめていると、雲母に引き寄せられた。
その顔を見上げると、彼は、茶屋の娘を威嚇するように唸り声をあげた。


一方、琥珀は虎次郎とともに行動していた。
「おらんなあ。」
「いませんねえ。」
里の外まで捜索範囲を広げるも、見つかる気配がない。
焦ったような困ったような様子の虎次郎に、このままでは埒が明かないと琥珀は問いかけた。
「あの…そもそも、喧嘩の原因って何だったんですか?」
「うっ…なぜそんなことを聞く?」
「それが手がかりになって居場所が分かるかもしれないし。」
「うう…」
口にするのを躊躇い唸る虎次郎の顔を覗き込む。
そんなに知られたくないのだろうか。
「…本当にしょうのないことなんだ。」
やがて観念して語りだした虎次郎に、無言で耳を傾ける。
「その、少しじゃれていたんだが…」
(じゃれていた…?)
虎次郎が話しやすいように真面目に聞こうと思った矢先に、神とその使いの間柄での行動と思えぬ単語を聞かされ、ピクリと肩を揺らしてしまう。
「ちょっと浮足立って、調子に乗ってしまったようだ…」
「一体何を…?」
「何ってほどのことでもねぇ。その触れ合いが神さんにとっては容量を超えていたらしい。怒って祠を出て行っちまった。」
(要領を得ない…)
「随分仲が良いんですね。神様ってもっと恐れ多い感じなのかと。」
「…ああ、実は先日結婚したんだ…」
「はあ、結婚。って、ええ結婚!?」
「そんなに驚かんでも。」
「ああ、すみません。つい…」
思わず琥珀は目の前のいかつい男をまじまじと見てしまう。
この虎のような男に、そんな高位で、繊細(仔猫の姿だと聞いていたし)な奥さんがいるとはとても思えなかったのだ。
(虎次郎さんも、猫の姿を取ったら意外と痩身で洗練された容姿なのかもしれない)
失礼なことを考え始めた琥珀の視線に気が付かないように虎次郎はため息を落とした。
「新婚で浮かれちまってたかもな…」
「はぁ…」
何の手がかりにもならない…と思いつつも、猫神の行動を考えてみる。
「やっぱり虎次郎さんに見つけてほしいんじゃないですか。」
「え…?」
「いくら祠を出たことがないとはいえ、甚大な力を持つ神様が迷子って考えにくいと思うんです。これだけ探しても見つからないってことは、神様が本気で隠れているから。そして、その場所は虎次郎さんにしか見つけられないところとか。」
「俺に?」
「そう。思い出の場所とか、何かありませんか?」
「うーーーん。」
また大きく頭をひねり出した巨漢を見て、細かいことは気にしない性格なんだろうな…と琥珀はしみじみ思った。

「落ち着いて、雲母。」
雲母の胸を押し、彼の放つ敵意の対象たる娘を振り返る。
この茶屋の娘、悪意こそ感じないが、普通の人間とはどこか違うような気もする。
言うなれば、視界に広がる景色の中で、彼女だけがくっきりと塗りこめられているような、そんな違和感を。
「この女の人に何か?」
声をひそめて尋ねる。
「…ものすごく強い力を感じる。危ないかもしれない。」
雲母にも己の震えの正体が分からないらしい。
ただ本能が、彼女は危険だと知らせているようだ。
困ったように再び振り返った珊瑚の様子に娘が気づき、後ろから激しく警戒の視線を送ってくる男を見た。
「ああ、そちらの猫又さんにはワタシの力はちと刺激が強いかネ。」
雲母の様子を意に介さず、あっけらかんとした台詞が零れる。
「猫又だって分かるの?」
「分かる分かる。立派な妖気が出てますからネ。」
そんな鷹揚な態度を受け、珊瑚は頭に浮かんでいた疑念を口にした。
「あんた、もしかすると…神様、とか?」
「…ありゃ、分かっちった?」
(やっぱり、そうだったんだ…)
「もしかしてワタシを探しに来たんかネ?」
のほほんとお茶をすする娘が、里を守り続けた猫神とは俄かには信じがたい。
「仔猫の姿をしてるって、聞いてたんですけど…」
「…トラがそう言ったかネ?」
先ほどまでまったりとした空気を漂わせていた娘の表情が少し固くなった。
「虎次郎さんのこと?」
「…トラは過保護なのです。仔猫にしかなれんと思っとるんかネ。ワタシこれでも、悠久のときをこの土地を守っとる神様なんだけどネ。」
呆れたようにため息をつく娘に、珊瑚は恐る恐る問いかける。
「祠に戻る気はないんですか?里は結構大変なことになってるんですけど。」
「そうだよネ。戻らんとネ。でもどんな顔して戻ろうかネ〜。」
そういえば、虎次郎が神を怒らせたのが事の発端だったか。
「…あの、喧嘩したって聞いたんですけど、何で喧嘩なんて?」
説得を試みようと話しかけた珊瑚の言葉に、猫娘は顔を逸らした。
「虎次郎さん、すごく心配してましたけど…」
「…怒ってなかったカ?」
「自分が怒らせてしまったって申し訳なさそうにしてました。」
考え込むように俯いた娘の様子に、戻る気になっただろうかと珊瑚はわずかに期待する。
しかしその刹那、珊瑚の鋭敏な感覚が邪悪な妖気を拾った。
開きかけた口を閉じ、静かに立ち上がる。
同じくそれに気づいた雲母と娘も立ち上がった。
僅かののちに、茶屋の背後から現れたのは四頭の巨大化した化け猫だった。
「…腹を空かせているようだ。」
狙いは人間である珊瑚だと暗に告げた雲母が、彼女の前に出て化け猫を睨みつける。
「待って雲母。人型では戦えないだろう。私なら大丈夫だから。」
茶屋の外壁に立てかけていた飛来骨を利き手に持ち、反対の手を雲母の肩に置いた。
「珊瑚も戦うのは久々だろう!俺の後ろにいろ!」
雲母が叫んだのと同時に化け猫が襲ってきた。
珊瑚が飛来骨を投げ、腰から抜刀した。
雲母も全身で体当たりする。
「お姉さんガタ〜〜」
猫神の驚いた声に、「あんたは茶屋に隠れてな!」と制すと目の前に迫ってきた化け猫の目元を切りつけた。
一瞬怯むも余計に暴れだす。
投げた飛来骨も敵の一頭に当たったようだが、腕力が衰えているのか、戦闘力はそいだものの決定打にはなっていないようだ。
雲母のほうも、慣れない人型のうえ、武器もないため苦戦を強いられている。
完全に劣勢だ。
「うわっっ!」
どのように巻き返すか珊瑚が算段を立てていたところに、雲母の叫び声が渓谷の谷間に響く。
慌てて振り返ると、押し倒された雲母が、化け猫の爪の餌食になる寸前だった。
「雲母ッッ!!」
「鎮まれ!!」
珊瑚の悲痛な叫びと、娘が言霊を放ったのは同時だった。
途端、雲母に覆いかぶさっていた化け猫の動きが止まり、くずおれた。
神力をもってして化け猫の動きを封じたが、安堵したのも束の間、他の化け猫が容赦なく襲ってくる。
しかし祠の外では力の弱まる神は、先ほどの一撃で力を使い果たし、なす術がないようだ。
雲母は体勢を立て直し、二股の尻尾で叩きつけ相手の力をそいでいる。
一方出産からそれほど経っておらず、久々の戦闘である珊瑚は、身を守るので精いっぱいで攻撃に転じられない。
焦る珊瑚が、ふと何かに呼ばれた気がした。
顔を上げた珊瑚は、化け猫の背後に、巨大化したその妖猫をしのぐ大きさの立派な猫が跳躍しているのを視界に捉えた。
いや、あれは猫ではない。
「虎…」
絵巻物でしか見たことがない。
実物を見るのは初めてだが、海を渡った大陸に棲息するという獰猛な獣。
その獣の背から小柄な人物が飛び降りてきた。
「姉上ー!」
そこからは世界がスローモーションのように見えた。


気が付くと周りには、体をピクピクと痙攣させた小猫が倒れていた。
呆然とそれらを見つめていると、伏せていた体を抱き起こされる。
「雲母…」
「怪我はないか?」
「大丈夫。お前こそ…」
頬にできた切り傷から血が流れ固まりかけている。
そっと手を伸ばすも、やんわりと阻まれた。
「気にすんな。それより、立てるか?」
「ああ…」
雲母に支えられながら立ち上がり、そのまま茶屋のほうへ足を向けると、琥珀が走り寄ってきた。
「姉上、大丈夫?」
「ああ、助かったよ。琥珀。」
琥珀の活躍ぶりを思い出し、珊瑚は思わず目を細めて彼を見つめる。
本当に頼もしくなった。
そういえば随分背も伸びた。
自分を越していくのももうあとわずかの時間だろう。
そんなことをぼんやり考えている姉の思考に気が付くはずもなく、琥珀は声を潜めて話しかけてくる。
「それよりちょと、気まずくて…」
弟の視線の先を辿ると、そこには茶屋の娘―もとい猫神と、その使いだという虎次郎の姿があった。
どうやら、沈黙が続いているらしい。
「そういえば、喧嘩をしたと言っていたっけ。」
「うん。…二人は夫婦らしいよ。」
「そうか…って、え!?」
虎次郎に聞かされた時の自分と同じような反応を示す姉に苦笑してしまう。
「うん、俺もびっくりしたよ。」
「意外だな。喧嘩の原因は何なんだ?」
雲母も驚き顔で身を乗り出してくる。
「どうも、虎次郎さんが神様にちょっかいを出しすぎたみたい。」
「そんなことでか」
雲母は呆れているが、珊瑚には己自身に心当たりがある。ありまくる。
新婚当時のあれやこれを思い出し、思わず頬を染めていると、遠くから声が聴こえてきた。
顔をあげ振り向くも、どこにも何もない。
「あれ!」
何かを見つけた雲母の視線を追うと、先ほど思い浮かべていた人物が真上に居るではないか。
「珊瑚!」
名を呼んだのは彼女の夫だった。
飛空していた巨大な猫が降り立つ時間も待てないというように、かなりの高さから飛び降り華麗に着地した。
足は無事かと思案する珊瑚の心配もよそに、彼は此方に足を向ける。
呆然とする珊瑚を抱きしめようとするのだが、何かに体を押され、その動きは阻まれた。
「いてて…」
珊瑚が彼の背後に目を向けると、彼を運んできた妖猫が体当たりをしたようだ。
何事かと見つめていると、その妖猫がボンッと軽快な音を立てて、人型に変化した。
ぴたっとして、足に大胆な切込みのある衣服をまとった若い女性の姿をしている。
「法師様〜」
まさに猫なで声を出した娘は弥勒に抱き着き、頬をすりすりしている。
同時に揺れる猫耳と細く長い尻尾が愛らしかった。

ぶちっ

そこにいた者は皆、何かが大きく切れる音を聞いたという。



―その少し前。
猫神は、颯爽と現れ妖猫たちを蹴散らしていく、黄金色と漆黒の縞模様の体躯がしなやかに舞う姿を呆然と眺めていた。
やがて辺りに静寂が戻ってくると、その獰猛な獣が己の前に音もなく降り立った。
「トラ…」
おずおずと近くにやってくる姿に、思わずいつものように頭を撫でてやった。
安心したのかその虎は、獣形を解き、人型になった。
その顔の近いことに、娘は慌てて距離をとる。
それを見たガタイのいい男は、思いっきり眉を下げた。
「…まだ怒って…ますね…」
「…」
「いい加減、機嫌直してください。」
「…」
「…俺が悪かったから」
「…」
何を言っても、返事がない。
思わず大きくため息をこぼすと、強く睨まれた。
「…何でここにいると思った?」
ようやく声を聞けたことに安堵し、後先考えず答える。
「いや、強い邪気を感じたもんだから。」
その答えに、一層眉を吊り上げた彼女はまたそっぽを向いてしまった。
「あ、いや…」
困ったように頭をかく男は、大きな体を小さくし、先ほどまでの恐ろし気な姿をした生き物と同一人物とは思えない。
横目でその様を見ていた猫神は、やがて諦めたように目を伏せた。
「…いつまでも我がままを言っているわけにもいかんね。…戻りマス。」
ぱあっと輝かせた顔を向けてきた男に、娘は苦笑した。

「なんだこの空気は?」
誰も口を挟めずに時が止まっていた、凍り付いたその場を、暢気な声が裂いた。
「虎次郎さん!」
ようやく呼吸を再開した琥珀が、涙目でその声を振り返る。
「あ、神様…ですよね?」
すかさず虎次郎の後ろを歩いていた娘に会釈をする。
「仲直りできたんですか?」
「…一応?」
「何ですか、一応って…」
情けない台詞に、睨めつけるように見てしまうのも仕方があるまい。
「あの…」
そこで二人のやりとりをよそに、猫神が神妙な顔で珊瑚の前へ出た。
「私、教えてほしいネ。」
不機嫌だった珊瑚も神の御前とあらば口を利かないというわけにも行くまい。
「…何を?」
「その…」
ええと…と言いよどむ姿に首をかしげる。
やがて意を決した娘がちらりと上目遣いで見つめてきた。
「教えてください!…接吻とはどうやるのカ!」
「え!?」
「あのお兄さんとやってみせて!」
「は!?!?」
猫神の言う「お兄さん」とは雲母のことだ。
突拍子のない依頼に、目を白黒させてしまう。
「ちょっと待て!」
成り行きを見守っていた弥勒が焦ったような声を出した。
だが、猫娘に抱き着かれたままの姿を見た珊瑚はすっと冷静になった。
「神様…よく見てて」
呟くように告げると、猫神の期待の眼差しを一身に受けながら、優美に歩き出す。
向かう先に居るのは、彼女の夫。
「おいで…」
気をよくした弥勒は、おなごに抱き着かれたまま、胡散臭い笑顔で両手を広げる。
その目前までやってきた珊瑚は、彼を見て目を細めると、グイッと踵を返した。
「え…」
行き場を失った両腕を見、顔をあげると、妻は雲母の前に居るではないか。
「おいお前、まさか!」
弥勒の悲痛な叫び声を無視して、不思議そうな表情をしている雲母の頬を両手で挟む。
そのまま頭を下げさせると、己のつま先を立てて、思いっきりぶちゅっと口づけた。
再び時が止まった、と琥珀は思った。


幼き頃からずっと寄り添っていた娘が険しい表情で己を見上げている。
怒りを湛えた珊瑚の瞳は、変わらず美しいと思った。
だが一緒に旅をしていた頃とは、醸す雰囲気が変わっている。
妻となり母となった珊瑚は精神が安定し、まろやかな美しさが内面から滲み、輝いている。
一言でいえば「ああ、幸せなんだな」と。
それが分かった雲母は押し付けられた唇を少しだけ吸い、驚いたように肩を揺らした娘の体をぎゅっと抱くとそっと離れた。
「…上手になったな、接吻」
その優し気な表情は大人びており、台詞にもドキッとさせられるが、しばし彼の顔を見つめたのちに珊瑚は微笑んだ。
「…何年人妻やってると思ってんのさ。」
「違いねぇ」
屈託のない笑顔に戻った雲母に安心する。
「ね、あたしは大丈夫だからさ…琥珀のこと、頼むよ。」


「…前より立派になってるネ。」
何とか場を繕った琥珀と虎次郎によって、ようやく神様を祠まで連れ帰ることに成功した。
里人たちの必死の作業により、一日も経っていないのに祠は見事に再建されていた。
再建の必要性を感じていた里人により、建材などはもともと用意されていたのだ。
その指導者たる弥勒の機嫌は、賞賛の声の甲斐もなく、残念ながら芳しくない。
しかしその妻の機嫌だって、直ったわけではない。
何故なら、弥勒には猫娘が貼りついたままだからだ。
その珊瑚の傍で雲母が軽やかに尻尾を振っているのを、琥珀は後ろから絶妙な気持ちで見ていた。
「短時間でよくここまでやってくれたなあ。」
低音の感嘆の声に、琥珀は声の主を仰ぎ見た。
「…義兄の念がこもっていますから、もう、ちょっとやそっとじゃ壊れませんよ。」
悪戯っぽく笑って見せる琥珀に、虎次郎は気まずそうに返した。
「…もう祠を壊すような喧嘩はしたくないがな。」
互いに眉を八の字にして苦笑しあう。
「トラ、帰るよ。」
「はい!」
慌てて虎次郎が神様の傍まで駆け寄ると、猫神は振り返って深々とお辞儀をした。
「この度は迷惑かけて、申し訳なかったネ。」
合わせて使者であり、夫である虎次郎も深く礼を取る。
「祠に帰ったら、再び結界を張りマス。猫たちの凶暴化はそれで治まるハズ。」
そう告げると、颯爽と踵を返し、祠に入ろうとした。
「猫神様、お待ちください!」
しかし、その動きを止める者があった。
「やはり、納得いかん!」
それは墨染の衣を纏った法師。
己に絡みつく猫娘を雲母に押し付けると、妻のほうへ走り寄り、彼女の腕を引いた。
妻の後頭部に空いた掌を押し当てながら、猫神を睨みつけると高らかに宣言する。
「接吻の、正しい見本はこうです!」
言うや否や、戸惑う妻の様子を全く顧みず、その瑞々しい唇を奪い、それはまた濃厚な口づけを与えた。


「とんでもないものを見たネ…」
「へぇ…」
「凄まじかったネ…」
「ですね…」
祠の中では猫神と虎男が背を向け座っている。
「…あー、そういや、あの場所って特別な場所でしたっけ?」
気まずさのあまり、話題を変える。
「あの場所?」
「神さんが籠城してた場所。覚えてなくて申し訳ないが。」
「ああ…」
「俺はこんな性格だから、神さんが全部教えてくれ。」
優しく響いた男の台詞に思わず神は振り返った。
広く頼もしい背中が、すっかり落ち込んでいるのを見つめ、口元が少し緩んだ。
「…あれは、トラが初めて私をヨメにすると言ってくれたとこだヨ。」
「え!?」
慌てて振り返った男のガラの悪い目が己を見つめる。
「お飯事だけどね!」
と、破顔した娘の顔を―心からの笑顔を久々に見たと思い、まじまじと見つめてしまった。
やがて、祠には温かな明かりが灯った。


「姉上、義兄上、お世話になりました。」
「家に寄ってかないの?」
姉の寂しそうな声に少々胸が痛むも、首を横に振った。
「依頼が、待ってるから。」
その晴れ晴れとした表情に、送り出してやらなきゃ、と珊瑚は己に言い聞かせた。
「琥珀、持っていきなさい。」
そんな様子を見守っていた弥勒から声をかけられた。
「あ、ありがとうございます!」
弥勒が義弟に渡したのは、数珠や破魔札などの彼の念のこもった品々だ。
義兄からの後押しが嬉しくて、思わず声が弾んでしまう。
珊瑚は、弟の背中を押す夫の姿を見、心配して引き留めようとした自分が少しばかり恥ずかしくなった。
「…頑張って。」
「はい!」
朗らかに笑って、妖猫に飛び乗った弟を眩しげに見つめていると、彼を乗せた雲母が擦り寄ってきた。
「ああ…お前も頑張って。」
物言わぬ妖に戻った雲母だが、珊瑚には彼の言いたいことが分かった。
その首にぎゅっと抱き着くと、妖猫は珊瑚に頬ずりをし、空高く駆け上がっていった。
その雄姿を熱心に見つめ、やがて見えなくなったところで振り返ると、案の定、夫が胡乱な目で見ていた。
「…浮気者。」
「…言うと思った。」
「ほお。自覚があるんですな。」
「ありません。ていうか、そんなこと言ったらおあいこ様だろ。あの娘…」
「あれは向こうが勝手に寄ってきたのであって、私は何もしていない。しかしお前は、自らこう…」
妻の雲母への接吻を思い出し、また微妙に機嫌が悪くなった。
「…私にだって、あんな接吻をくれたことないのに。」
怒っているというより、むしろいじけたような声を出す夫を、ちょっと可愛いと思ってしまい、頬が緩んだ。
「何笑ってるんですか。」
弟もその相棒も、もはや己の手の届く範疇を飛び越え、行くべき道を模索し、進んでいる。
自分の役目は、見守ることなのだと、頭では分かっていたことが、ようやく心でも理解できた気がした。
だが目の前の、昔は見せなかった喜怒哀楽を表現してくれるようになった男とは、これからもずっと己の世界でともに生きていくのだ。
自分の役目は、この夫と子供たちを愛し、守ることだ。
「法師様。」
ゆっくりと告げられた呼称は、何故か甘く響いた。
思わず唾を飲み込んだ弥勒の頬に、優しく片手が翳される。
そっと閉じられた妻の瞼を見つめていると、己の唇に柔らかいものが重なった。
やがて、押し付けられ、ほんの少しだけ食まれる。
驚いているうちに、熱が離れていった。
「…前より上手くなったって、雲母が。」
「…煽っているのか?」
掠れた声が響いたのち、弥勒は眼前で艶めく宝石にかぶりつくように口づけた。


「…出ていく間を完全に逃した…」
とうの昔に迎えにやってきた八衛門が寸分の隙間のなくなった若夫婦を遠くから見つめながら、大きくため息をついていた。


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