「ここが家だよ」
「ほう…」
男は注意深く、感慨深く、もう何度も足を踏み入れているはずの我が家を観察する。
ふっと振り返ると珊瑚が無言で濡れた手ぬぐいを差し出していた。
「?」
「…足拭いて。」
「ああ、すみません。気が付かなくて。」
へらりと笑う顔はいつもと同じだけれど。
いつもならいちいち言わなくても分かってくれるのに…
「あの…上がっても良いですか?」
複雑な表情の珊瑚に向かって遠慮がちに声をかけるのは紛れもなく、夫―弥勒なのである。



辿り着いた先は― (前篇)



犬夜叉が弥勒を抱えて慌てて仕事先から帰ってきたのは四日ほど前のことであった。
妖怪に吹き飛ばされ、打ち所が悪かったのか、気を失って以来一向に目を覚まさないのだという。
安静にしておいた方がいいかもとも思ったが、その場に医術に明るい者がなく、焦った犬夜叉はなるべく揺り動かさぬよう弥勒を連れ帰ったのだ。
「おい楓婆、弥勒の様子はどうなんでい!」
何かあってもすぐに楓に対応してもらえるよう弥勒は老巫女の庵で寝かされている。
その庵へズカズカと上り込んできた犬夜叉は、弥勒の顔を覗き込んだ。
どうやら現場に居合わせた彼は、責任を感じているらしい。
「そう喚くな。…呼吸も安定しておるし命に別状はないようじゃ」
「良かったのう…」
七宝が犬夜叉の肩口でほっと溜息をついた。
「じきに目を覚ますじゃろうが…頭の方はどこを打ったか分からんからな…」
「それでも…生きてくれているならそれでいい」
徐に声を上げたのはそれまで弥勒の眠る傍に座り、押し黙っていた珊瑚だ。
神妙な面持ちで放たれた言葉にはっとした犬夜叉と七宝が息を呑む。
「ん…」
「弥勒!」
そこでようやく弥勒の目が開いた。
丸二日ほど意識を失っていただろうか。
「…法師殿、調子はどうじゃ?」
「…」
頭を抱えながら法師がゆっくりと体を起こす。
「って…」
「あ、法師様まだ無理しちゃ…」
珊瑚がその動きを助けようと背に手を添えると弥勒ははっと彼女の顔を見た。
「法師様…」
二日ぶりに交わされた視線に、珊瑚の胸に喜びが満ちた。
じわりと視界がにじむ。
だが次の一言にその涙もさっと引いてしまったのである。
「すみません、どなたですか…?」


「どうやら法師殿は『思い出』に当たる記憶がすっぽり抜けているようだ。」
「だな。会話は普通にできるし。俺が誰かは分からなくても『半妖』ってことは分かるみてぇだしな」
けっと呟いた犬夜叉も少し疲れた表情だ。
あの後、言葉を失った珊瑚の代わりに楓と犬夜叉が弥勒に負担にならないよう慎重に状態を確認した。
「…まぁ、一時的なもののことが多いと聞く。そう気を落とすな、と言っても無理かもしれんが…」
心配そうに楓が珊瑚の方に顔を向けた。
「いや…大丈夫です。それより、他に異常はなかったですか?」
「体の方はもう問題なさそうだ。ときどき頭が痛むようだが…それももう少し安静にしていればよくなるじゃろうて」
「ありがとうございます…あの…」
「何じゃ?」
「ちょっと、法師様と二人で話してもいいかな?」
「…ああ、そうじゃな。犬夜叉、七宝。薬草を取りに行くから手伝っておくれ。」
三人は弥勒と珊瑚のことを気遣いながらも、そっと庵を後にした。




「ねぇ…調子はどう?痛いとこない?」
それから二日、楓のところで休ませてもらっていた弥勒だが体力もほぼ回復したので、珊瑚に連れられ我が家に帰ってきた。
「ええ。大丈夫です。それより…」
「なに?」
珊瑚から白湯の入った湯呑を受け取りながら弥勒は続けた。
「その…ほんとうに二人で暮らすんでしょうか?」
「…不服かい?」
「そういう意味ではなくて…」
眉をひそめ少し憂えたような表情をする。
こんな表情を珊瑚はあまり見たことがない。
「いつまでも楓様のところに厄介になるわけにはいかないだろ。あの人は忙しいんだ。」
「しかし、これでは貴方に迷惑がかかるのでは?」
そう言って珊瑚を見た顔がひどく不安に揺れていて思わず珊瑚は笑ってしまった。
「何言ってんのさ。あたしたちは夫婦なんだから遠慮なんていらないよ。」
そのセリフに弥勒の目が大きく開いた。
夫婦だということは言ってあるのに何をそんなに驚くのかとまた珊瑚は笑みを深くした。
「それにこの家を建ててくれたのは法師様なんだから。この家の大黒柱なんだからね、しっかりしてよ。」
「…ありがとう」
殊勝にもお礼を告げた弥勒はゆっくりと白湯を口にした。


家とその周辺を一通り案内した後は、あまり無理をさせてはいけないと居間でくつろいでもらっている。
その間珊瑚は、ここ数日で怠っていた家事にいそしむ。
夕餉を終えると寝室の準備に行った。
「…」
いつもは何となくくっついている二組の布団。
今宵もそれにならってもよいのだろうが、自らそのように敷いているのだと思われるのはなんだか恥ずかしい。
珊瑚は感じていたのだが、『思い出』の抜け落ちた弥勒は基本的に素直だ。
「風穴の呪い」という恐ろしく忌まわしい記憶がないため、そこから身を守るために形成した人格がすっかりなりを潜めているように思う。
幼き頃から精神年齢を高く高く積み上げてきたのだからそれを失った弥勒はまるで子供のようにも見える。
そんな純粋な弥勒と床を並べるのはやはりかなり恥ずかしい。
結果、布団は少し離れて並べることにした。

「…私は居間で寝ましょうか?」
妻だという娘に案内され寝室まで来たが、並べられた布団を見るとやはり同室で眠るのは躊躇われた。
「…大丈夫。」
「遠慮しなくていいよ!」と笑って言いたかったのだが、どうも自ら誘っているように思えてそこは大きな口を叩けない。
昼間の勢いをなくした娘を見てやはり遠慮した方が…と思った弥勒だが、どうも足が勝手に寝室に向かう。
(よほどこの娘のそばに居たいらしい)
記憶は抜けていても体は覚えている、のだろうか。
弥勒は苦笑しながら布団にもぐりこんだ。
珊瑚も続いて布団に入る。
「…おやすみ」
「おやすみなさい」
一応挨拶を交わすものも、弥勒の心中は穏やかではなかった。
(くそ、眠れやしねえ)
それはそうだ。
妻だろうが何だろうが、妙齢の、しかもとんでもない美人と同室なのだ。
(俺は法師ではないのか?…煩悩の塊じゃないか)
自分はよほど毎晩この娘を欲していたのだろうか、などという想像に至り少し青ざめた。
そこで背後で珊瑚の起き上がる気配を感じた。
(厠か…?)
「て、ええ?」
背後の気配に神経を研ぎ澄ましていると、するりと珊瑚が己の布団に入ってきたではないか。
「…意識しちゃって却って眠れないの」
「はぁ!?」
弥勒は素っ頓狂な声を上げてしまった。
「やっぱり。法師様に触れていると安心する。」
「え…」
そういうと珊瑚はぎゅーっと法師の胴に腕を巻きつけ抱きついた。
「あの…」
どうすればよいのか思案していると、珊瑚の肩が小さく震えているのに気付いた。
弥勒ははっとした。
自分のことばかり考えていたが、己よりもこの娘の方がずっとずっと心細い思いをしていたのではないか。
聞けば新婚だというし、気丈にはしているが、突然旦那が記憶をなくしたのでは相当不安を抱えているはずだ。
「すみません…」
弥勒は珊瑚の耳元で呟きその小さな肢体をぎゅっと抱き返した。


「おはよう」
弥勒が目を覚まし、寝室を出たころにはすっかり朝餉の準備が整っていた。
弥勒にしては寝坊だがそれも仕方ない。
一晩中美しい娘を腕に抱いており、よく眠れなかったのだから。
一方珊瑚は長時間に渡り泣いていたせいで目元は少し赤かったが、法師の腕のぬくもりを感じ数日ぶりにぐっすり眠れたようだ。
「…ごめん法師様。衣汚しちゃったね。」
「いえ…」
「今日は天気がいいから思いっきり洗濯するね。」
記憶のない弥勒を一人にしておくのも不安なので珊瑚は洗濯に同行させた。
「どれ、手伝いましょう」
「い、いいよ!怪我まだ完治じゃないだろう?」
「これくらいどうってことはありません。」
そうやって率先して家事を手伝ってくれる夫は以前とまったく変わりなく珊瑚は切なさに胸を締め付けられた。

その晩は昨晩より少しだけ布団を近づけて敷いた。
「…今日は別々の布団で寝るんですか?」
「!…ああああれは、昨日が特別!」
床に就いて第一声でそのような問いを投げられた珊瑚は途端頬を染めた。
「だいたい、知らない女と一緒じゃゆっくり寝られないだろう?」
「知らぬ女ではない。私の奥さんでしょう?」
「え…」
即答されたその言葉に思わず珊瑚は振り向き法師の方を見つめた。
月明かりにうっすら浮かび上がる法師の影はこちらを見つめているように見える。
どんな表情をしているかまでは分からないけれど。
(思い出したわけじゃ…なさそうだな)
「あのさ。聞きたかったんだけど」
「何ですか?」
「あたしと夫婦って、嫌じゃ、ない?」
「は?」
「夫婦だからしぶしぶ付き合ってくれているかもしれないけど、本当はその…あたしと暮らすの窮屈だとか思ってない?」
「なぜそのような…」
「だって一緒に旅した思い出がなければ、あたしなんかその辺の女で…可愛げも取り柄もないし。こんなんが嫁じゃちょっとがっかりしてないかなーって」
口をとがらせて呟く表情はたいへん愛らしいのだがこの暗闇ではそれは弥勒に見えない。
「…何を言っているんですか。十分可愛いですよ」
「なっ」
以前の弥勒を思わせる口説き文句に珊瑚は絶句する。
「…そういう口がうまいところは変わってないんだから!」
「本心ですよ。…珊瑚」
「!今の…」
「あ、違いますか?私は貴方のことを何と呼んでいましたか?」
かーっと珊瑚の頬は染まっていく。
「…珊瑚であってる。」
「そうか」
ニコリと笑って弥勒は右手を伸ばした。
「今宵は手を繋いでてもいいですか?」
「ん…」
「ところで珊瑚はなぜ私のことを法師様と呼ぶんですか?」
「え?」
「普通は名前では?」
「…知らない!おやすみ!」
布団に顔を埋めてしまった珊瑚の背中に弥勒は優しい笑みを向けた。




(後篇)





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