(後篇)


「おや?」
「ああ、法師様おはよう」
次の日弥勒が居間に行くと、一風変わった衣装を身に着けた珊瑚がいた。
「朝餉食べ終わったら楓様のところに行って。今日は法師様はそこでお留守番。」
「珊瑚は?」
「あたしは法師様の代わりに仕事に行ってくる。」
「仕事?」
「妖怪退治の仕事。どうしても犬夜叉だけじゃ交渉なんか不安だからね。」
「ああ、そういえば怪我を負ったのも妖怪退治のときだったと言っていましたっけ…珊瑚も妖怪退治を?」
「あたしは妖怪退治が本業なのさ」
そう言ってニコリとほほ笑んだ珊瑚の姿は凛々しくまぶしく弥勒は目を細めた。
「しかし妻に働かせて留守番とは不甲斐ないですなあ」
「何言ってんの。怪我人なんだから、おとなしくしてるのが当たり前だろ」
「私もついていきます。」
「危ないから駄目だよ!」
珊瑚は慌てて弥勒を引き留めにかかる。
「体調はもうすっかりいいんだ。それに記憶を失ったときと類似の場面を見れば何か思い出すきっかけになるかもしれないでしょう?」
「でも…」
「心配には及びません。お前たちの邪魔はしないし見学するだけですから」
法師は渋る珊瑚を説き伏せついてきた。結局法師の押しには勝てない。

「おお弥勒。ついてきたのか?調子はどうだ?」
「お前は犬夜叉でしたね。もうすっかり良くなりましたよ」
「…何か本物の法師みたいだな」
邪心のない笑顔を向けられ、犬夜叉は複雑な感想を珊瑚にぼそっと耳打ちした。
「ほんとに。今まで見てきた不良法師は何だったんだろうっていう。」
苦笑する珊瑚に目を向け、犬夜叉は一瞬躊躇うも、気になっていたことを尋ねた。
「…それよりお前、大丈夫か?」
「何が?」
急に真剣な顔で正面から見つめられた珊瑚は思わずドキリとしてしまう。
「いや、何でもない。」
「何でもないって…」
「とにかく一人で抱えるんじゃねぇぞ。嫁だからってお前だけで背負う必要はないんだからな。俺らに遠慮なく頼れ。」
「犬夜叉…」
まっすぐに心強い言葉をかけられ、胸がいっぱいになる。
「ありがとう。その言葉だけで十分気が楽になるよ。…まだ大丈夫。」
そう言って浮かべた愛らしい笑みをまともに受けた犬夜叉は少し赤くなりそっぽを向いた。
その様子を少し離れたところから弥勒が見ていた。


仕事についてきた弥勒だったがしかし、結局記憶を取り戻すことはなかった。
その代わり錫杖を使い、破魔札を使い、弱い妖怪だったとはいえ、見学するだけと言ったくせに見事退治を成し遂げた弥勒は、その体が全く鈍っていないことを証明してみせた。
「…何やってんの。」
寝室に入った珊瑚は低い声で夫を問いただした。
すでに準備されていた布団はぴったりとくっついている。
「我々は夫婦なんだからいいでしょう」
にやりと笑う弥勒はだんだん以前の夫に戻りつつあるような気もする。
「法師様記憶戻ってるんじゃ…」
思わず呟いた珊瑚を振り返り弥勒は不思議そうに首を傾げた。
その様子に嘘は感じられないので、恐らく記憶はまだ戻っていないのだろうが、人格は少しずつ戻っているように思え、安堵したような呆れたような溜息をついた。
珊瑚が布団の傍に寄ると、素早く背後に回った弥勒に思いっきり抱きしめられた。
「!」
「珊瑚…いいか?」
「え!?」
(それって、ええ???)
混乱した珊瑚が振り向こうとするも、己の頬が彼の唇に触れそうになり振り向くことができない。
「それとも、記憶のない旦那とは、嫌か?」
「…そういう問題じゃ…きゃあ!」
そのまま珊瑚は布団に押し倒された。
「お前との時間は何も思い出せないが、体が覚えているんだ。お前の感触、お前の声、お前のぬくもり…それを俺の体は求めている。」
「…!」
「お前が好きだ…愛している。数日暮らしただけでこんなこと言っても信じてもらえんかもしれんが…」
「法師様…」
「前の私は戻らないかもしれない。それでもこれからもお前を愛していくから…今の俺のことも愛してくれないか?」
そう切なげに告げて首元に顔をうずめた。
「やっ」
法師の体温を感じ、珊瑚は喘いだ。
「…記憶がなくても、法師様は法師様だ。…愛しているに決まっているだろ?」
掠れた声で答えた珊瑚の言葉を肯定の意と捉え、法師は知っているはずの、だが、初めて知る妻の躰に溺れていった。


翌朝、珊瑚は久々に弥勒の逞しい胸の中で目覚めた。
昨日彼は、改めて愛の誓いを立ててくれた。
もしこのまま記憶が戻らなくても、互いに愛し愛され生きていくことはできるだろうと思う。
(でもなんだか…)
とてつもなく寂しい。
自分だけが過去を知っている。
自分だけが歳を取ったような…大きな隔たりを感じてしまうのは否めない。
「はぁ」
珊瑚が小さくため息を吐くと、背中に回されていた弥勒の腕がぎゅっとその肢体を抱き寄せた。
「…やはり夕べは嫌な思いをさせましたか?」
「おはよ。」
「…おはようございます。」
「そんな不安げな顔しないで。嫌なことなんてこれっぽっちもないんだから」
そう言って彼の頬に手を当て優しく笑う珊瑚は、母親のようにも思えて、弥勒は目を伏せた。


それから数日が経ち、弥勒の怪我は完治し体調もすっかり良くなった。
珊瑚の家事を手伝い、七宝やりんの遊びに付き合い、穏やかに時を過ごしていた。
錫杖の使い方は体が覚えていたから、珊瑚同伴で簡単な妖怪退治に出かけることもできるようになった。
「夢心和尚のところに?」
「はい。体術は体が覚えているし、あたしや犬夜叉でも見てあげられるんだけど、法力のことはあたしらではどうにもならないから。」
すっかり旅支度を整えた珊瑚と弥勒は、楓の家を訪れていた。
以前の弥勒に少しでも近づくため、夢心和尚に再度修行を行ってもらおうと言うのだ。
記憶を取り戻すきっかけになるかもしれない。
「ああ、そうだね。どちらにせよ法師殿の状態を報告せねばならんしな。」
「そうなんです。だから、少しの間留守にするのでよろしくお願いします。」
「うむ。気を付けて行ってくるんじゃよ」


「何じゃと…」
夢心和尚の寺にたどり着き、珊瑚は法師の状態の報告と、法力取得の再指導をお願いした。
流石の夢心も弥勒の記憶喪失に動揺しているようだ。
「記憶はあまり戻っていないんですが、所作とか口調とか、表情とか、だんだん前の法師様に近づいてきていて。記憶もそのうち戻るんじゃないかな、って期待してはいるんですけど…」
「ほう」
「体力仕事は体がよく覚えているようなので、問題ないんですけど、こればっかりは…」
「…そうか。しかしお前も災難じゃな。ようやく呪いが解けて腰を落ち着けたと思ったら今度は記憶喪失とは。」
「呪い…ですか」
珊瑚や犬夜叉からざっくりと過去に抱えていた呪いの話は聞いていたが、今いち実感がわかない。
「まぁ良い。久々に弟子の修行を見てやるんじゃ。腕が鳴るわい。」
夢心は難しい顔をする弟子夫婦に向かい、ふぉっふぉっと穏やかに笑ってくれた。

「これがお義父上のお墓だよ。」
「…なぜこのような大きな穴の中に…」
「ああ。お義父上は、自らの風穴に飲みこまれたんだ。」
はっとして弥勒は珊瑚の方を振り向いたが、その横顔はまっすぐに父親の墓を見つめたままだった。
父のことも含め、過去のことはおおざっぱに聞いている。
しかしどれもこれもが他人事のようであまり飲みこんでいなかった。
だが、こうして親の墓を目の前にし、妻の暗い横顔を見つめ、ようやく過去の自分の歩んできた道の重さを少し感じ取った。
「珊瑚…」
一瞬目を閉じて、珊瑚はゆっくり振り返った。
「私の過去のこと、もう一度教えてもらえますか?」


その晩は寺に泊まることとなった。
珊瑚に旅のことを、夢心にその前のことをじっくりと聞かせてもらった。
夢心の話は珊瑚も初めて聞く話が多く、興味深く聞いていた。
そして弥勒は改めて感じていた。
自分は、父は、祖父は、何と壮絶な人生を歩んでいたのかと。
妻は、義弟は、何と悲惨な運命に巻き込まれたのかと。
そして弥勒は噛みしめていた。
苦労の果てに掴んだ「現在」がどれほど幸福に満ちているのか、と。
それを自分は忘れ、当たり前のように享受していた。
辛い過去を珊瑚一人に押し付けて、自分はすべて忘れたというのだから情けない。
ふと隣に目をやると、妻の小さな寝息が耳に入ってきた。
―愛おしい。
心の底からその気持ちがあふれ、そっと目を閉じると一筋の涙がこぼれた。
そしてそのまま深い眠りについた。


「!」
「どうしたの?」
翌朝、勢いよく体を起こした弥勒を、髪を梳き身支度をしていた珊瑚が訝しげに振り返った。
「…珊瑚」
徐に立ち上がり、妻にすり寄った弥勒はそして思いっきり彼女を抱きしめた。
「ちょ、なにすんのさ」
「…思い出しました」
「へ?」
「すべて思い出した。」
「えーー??」
珊瑚は手にしていた櫛をポロリと落とし、法師の顔を穴が開くほど見つめていた。

「何じゃ、思い出したんか。」
「…心配をおかけしました。」
「せっかくきつーい修行を用意しておったのに。」
という夢心の声音は明らかに安堵が浮かんでいる。
「今日思い出すんだったら、昨日あんなに全部話す必要なかったね」
という珊瑚は苦笑していた。
「…いえ、あれがあったからこそ思い出したんだと思います。」
「…そうなの?」
「私は恐らく…過去の記憶を無意識に思い出さないようにしていたような気がします」
「え…」
「まぁあんな過去ですからな…それでも」
「?」
「お前との幸せな時間を忘れるわけにはいかん、と気づいたんですな」
と笑う顔は胡散臭かったが、本当に法師が帰ってきたことを感じ、目頭の熱くなった珊瑚は慌てて俯いた。


「やーっと思い出したか!」
「いろいろと迷惑かけたな。」
「よかったのう弥勒」
「七宝も、ありがとう」
その足で村まで帰ってきた弥勒たちは早速皆に記憶が戻った報告を行っていた。
「ほんっとーに迷惑な野郎だな。珊瑚がどれだけ苦労したか…」
とうそぶく犬夜叉を見て弥勒が目をすっと細めた。
「な、なんだよ」
「ああ。夫が記憶をなくし、傷心の妻にどこぞの犬が手を出そうとしていたので、慌てて戻ってきましたよ」
「「は?!」」
「どういうことじゃ?」
犬夜叉と珊瑚が素っ頓狂な声を上げたが、弥勒は泰然と白湯をすすっていた。
何故か必死に七宝に言い訳を試みている犬夜叉と珊瑚をよそにぼそっと楓が呟いた。
「…法師殿、あまり珊瑚に心配をかけてやるなよ」
「…分かっています。我ながら面目なかったと猛省しております。」
湯呑を置いた法師は先ほどとは一転、真面目な表情で妻を見つめていた。


その夜は、ようやく本当に夫婦二人の時間が戻ってきたことをしみじみと感じていた。
「…珊瑚」
「ん?」
「この間、本当に辛い思いをさせてしまい、すまなかった」
法師は深々と頭を下げる。
「やだ、やめてよ。」
珊瑚は軽く受け流したが、目じりには涙がたまっている。
「こんな私でも、夫婦だと言って接してくれて本当にありがとう」
「…当たり前だろ」
「あと、記憶をなくしたあの日、行く宛てが分からず不安だった私にお前が言ってくれた言葉があっただろう?」
「ん?」
「『記憶がなくても体が動かなくても、生きてさえいてくれたらそれでいい』」
それは楓たちにいったん席を外してもらい、二人きりになって珊瑚が最初に語りかけた言葉だった。
「あ…」
「お前にもそのまま同じ言葉を返したい。」
「え…?」
「お前に何が起こっても、俺はお前を愛し続ける。だから生きていてくれ、生きて俺のそばにいてほしい…これからもともに生きてくれるか?」
「…はい!」
珊瑚は最上級の笑みを浮かべて、法師の胸に飛び込んだ。
「法師様…あたしも、ずっとずっと愛している…」
幸せそうな表情を浮かべた珊瑚の耳元ににやりと笑った法師が顔を近づけた。
「できれば子を産んでくれるとさらに嬉しいんですけど。」
「え?て、ちょっと、きゃあ!」
そしてその夜、久々に二人は何の不安もなく抱き合った。

どんな苦難が襲ってこようとも、結局自分は珊瑚のところへ辿り着こうと必死にあがいている。
これまでも、これからも。
弥勒は苦笑すると、腕の中で呼吸を整える妻に話しかけた。
「あの約束も、ばっちり思い出したんで」
「…あの約束?」
「固く誓ってくれたではないですか…十人も二十人も生んでくれると―」




(前篇)




あとがき
記憶をなくしているのに二人とも比較的冷静です(笑)
そして記憶をなくしているのにあんなことやこんなことをしちゃいます。ごめんなさい。


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