(後篇)


他愛ないことを話しながら食事を終えると、辺りはすっかり暗くなっており、帰れる頃合いではなくなってしまった。
それに、久しぶりの兄妹再会だ。これでお別れではあまりに短すぎる。
当然宿泊する流れになったが、布団が足りないという問題が生じた。
まだ弥勒と珊瑚が同居し始めてから日が浅く、この家には客人の布団までは用意されていなかったのである。
「私は居間を使いますからゆっくりしてください。」
と弥勒が微笑むと、とんでもない!と美鈴が首を振った。
「私がお邪魔してしまったんですもの!私が居間で休ませてもらいます。」
「しかし、お客人に、しかもおなごに布団もなくこのような場所で寝ていただくわけには行きません。」
やはり兄妹、頑固なところが似ているのかお互い譲らない。
「…じゃあ、みんなで一緒に寝よう。」
見かねた珊瑚が、いとも簡単にのたまうものだから弥勒も美鈴も仰天した。
「みんなで、というのは…」
「布団を二つくっつけて並べたら、三人くらい一緒に寝られるよ。法師様、今日も仕事で疲れているんだからこんなことで揉めてる時間がもったいないよ。」
話は決まったとばかりに珊瑚が寝室に布団を延べに行く。

「私が真ん中ですかっ?」
とっとと片側の布団の端に滑り込んだ珊瑚を見て、慌てて弥勒が突っ込む。
「いいじゃないか。兄妹仲良くさ。」
複雑な表情を浮かべ、弥勒と美鈴が目を合わせた。
二人がどうしたものかと考えていると、背を向けた珊瑚が、ぽつりと語り出した。
「…小さいころ、琥珀…弟と一緒に寝てた頃。大きな妖怪退治があった後なんかさ、大人たちが騒いでいる中、子供は早々に寝かされてさ。」
弥勒が眉がピクリと跳ねた。
それは在りし日の彼女の故郷の光景。
「でも目はさえてるもんだから、なかなか寝付けなくて。そんな時は二人の世界に入り込んで、こそこそいろんな話をするの。…そんな時間がとっても好きだった。」
珊瑚はこてん、と仰向けになり、二人に笑いかけた。
「もうこんな機会はないんだ。童心に返ってさ。」
「…ありがとうございます」
美鈴は少し頬を上気させ、布団に入った。
続いて小さくため息をついて弥勒も床につき灯りを消した。
それを確認して、満足げに再び二人に背を向ける珊瑚だったが…
「ひゃっ」
「どうなさいました?」
「何でもありません。眠りましょう。」
暗闇の中、不思議そうに首を傾げる美鈴だが、兄夫婦はそれ以上何も言わなかった。
美鈴がそっと目を閉じた一方で、珊瑚が余計な声を発しないよう両手で己の口元を抑えていた。
横向きに眠る珊瑚と布団の間に、弥勒の手が滑り込んできてその肢体を抱き寄せられていたのである。
(強がっているの分かっちゃったかな…)
先ほど告げた言葉に嘘はない。
ないが、やはり、妙齢のおなごと夫が枕を並べるということに、少々不安を覚えていたのも事実である。
その気持ちを汲んだかのように己に寄り添う夫の為しように恥ずかしながらも嬉しさを感じる珊瑚なのであった。



夜半、珊瑚はふと目を覚ました。
ぼーっとした頭のまま隣を見るとそこに眠っていたはずの夫とその妹と名乗った女が姿を消していた。
「法師様…」
妙な胸騒ぎに苛まれ布団を抜け出すも、どうも家の中には人気がないのである。
珊瑚は眉をひそめて、そのまま二人を探すためふらりと家の外へ出た。
家の裏手の森―かつて『犬夜叉の森』と呼ばれていたそこに微かな青緑の光を見つけ、惹かれるようにそちらへ足を向ける。
僅かも行かないうちに二人の姿を見つけた。
「…!法師様っ!!」
が、目に飛び込んできたその姿に、珊瑚は完全に覚醒し、気づけば大声を上げていた。
何と二人は固く抱き合っているではないか。
いくら兄妹とはいえ、いい大人の男女が簡単に抱き合われては困るのだ。
やはり、あの女は妹ではなく愛人だったのか。
そんな思いがよぎり、かっと頭に血が上った珊瑚はずかずかと夫の元へ駆け寄る。
が、引きはがそうとした腕は何らかの力により弾かれた。
「痛っ」
(結界…?)
何でそんなものが、と二人に目を向けると、弥勒が振り返り、何事か呟いた。
離れて見ていろということらしい。
苦しげな表情が気になるも、渋々珊瑚は引き下がった。
とたん青緑の発光はさらに強くなる。

少し冷静になってまじまじと見つめると、抱き合っているように見えたが、美鈴の方が弥勒を抱き潰そうとしているようにも見える。
はっとした珊瑚が再度駆け寄ろうとするも、さらに強大になった結界がそれを阻んだ。
「法師様!」
その声に反応するかのように、法師が懐から破魔札を取り出し経を唱えた。
その顔にはわずかに脂汗が滲んでいる。
(何…妖怪?)
だったら己も加勢しなければ、と思うも、結界に阻まれ為す術がない。
目の前で夫が苦しんでいるのに助けられないもどかしさに珊瑚が焦り始めたとき、突如青緑の発光がより増大し、炎のように法師の手元の破魔札を焼き切った。
そしてそのまま法師が意識を失った。
「法師様…法師様!!」

「珊瑚!」

泣き叫び夫に駆け寄ろうとする珊瑚の後ろから、聞きなれた力強い声がかかった。
「犬夜叉!」
「…なんだか、胡散臭い匂いがしやがるな…あの女は誰だ?」
いくらか落ち着いた珊瑚が犬夜叉に懇願する。
「せ、説明は後だ!結界を破って!」
「分かってらぁ!」
言い終わる前に、犬夜叉は愛刀の刀身を赤く変化させ、その結界を破った。
「やっぱり…」
結界を破ったことでその匂いが余計に鼻につく。
「…何者?」
それに気づいた美鈴が法師を盾に犬夜叉を睨んだ。
「お前こそ何者だ!?奈落の…奈落の瘴気の匂いがするぞ!」
「え?」
驚いた珊瑚が犬夜叉を見、美鈴に目を向けるとはっとして自宅へ駆けて行った。
一方犬夜叉は、挑発はするものの、弥勒を盾にとられているのでどうも攻撃に出られないらしい。
「…この男の仲間か?」
そう口にした美鈴からはじわりと黒い靄のようなものが噴出している。
「瘴気か?!とっとと弥勒を離しやがれ!」
「だーーー!」
「あ、おい珊瑚!」
と、その時飛来骨を持って戻ってきた珊瑚が勢いよく駆けて来、そのまま二人に突進していった。
「何してんだ!?」
犬夜叉があっけにとられている。
「法師様は死なせない!美鈴さん、あなたも!!」
珊瑚の眦から涙が散り、それがかかった飛来骨が俄かに光を放つ。
そしてそのまま二人に勢いよく突っ込んだ。
―飛来骨は、美鈴を取り囲んでいた黒い靄だけを砕いた。

「法師様!」
珊瑚はそのまま飛来骨を放り投げ、倒れこんだ夫に抱きついた。
「う…」
法師はすぐに目を覚ました。
「珊瑚…」
己の胸にすがりつく妻を優しく見つめ、転がる飛来骨に目を向けた。
「飛来骨は邪気を巻き込み砕くんだったな…」
犬夜叉のつぶやきに、法師が視線を向ける。
「犬夜叉…来てくれたのか…。」
「…何なんだ、その女。なんで奈落の瘴気の匂いがするんだ」
犬夜叉が険しい顔で倒れ伏す美鈴を睨む。
「ああ…妹だ。」
「…妹?」
「う…」
と、そこで美鈴が気が付いた。
ゆっくり起き上がる弥勒を珊瑚がかばうように支えた。
同時に起き上がった美鈴から先ほどまでの殺気は消えていた。
「美鈴…殿。我々は敵ではありません。…なぜ、このようなことをしたのかお話しいただけますか?」
静かに、だが優しく尋ねる法師を見、固唾をのんで見守る珊瑚と犬夜叉にも目を向けた後、美鈴は表情を変えぬまま口を開いた。
「そもそも私は、この世のものではございません。」




その娘は、身寄りはなかったが、器量がよく慎ましやかなおなごだった。
娘はとある屋敷で下働きをしていたが、ある日、その家に旅の法師が訪れた。
「貴女は雪のようですね」
それが、初めて会った日、初めて交わした会話だった。
それから何度か顔を合わせるようになり、気づけば、法師はその近隣の寺に住みつき、頻繁に会うようになっていた。
「やはり、貴女は雪のようだ。抜けるように白い肌、静かだが、辺り一面を包み込んでしまうような包容力。そして…触れては溶けてしまうのではないかというほどの儚さ。」
何をそんなに怯えているのか?
娘は不思議に思ったが、法師を安心させるように微笑み、その手を自らの肌へ導いた。
「…大丈夫ですよ。溶けてなくなったりしません。」
その手を―手甲で覆われた右手が触れたその頬は、とても熱かった。

季節が流れ、木枯らし吹くある夜のこと、娘は彼の子を己の腹に宿したことを告げた。
しかし、法師は一瞬喜色を浮かべたものの、すぐに悲しげな顔をした。
「やはり…迷惑でしょうか?」
「いえ…ただ…」
そして法師は今まで話せずにいたことを、右手に抱える暗闇を、白状した。
嫌われるのではないか―その子を宿したせいで気が狂うのではないか…そんな想像が頭を駆け抜ける。
だが、娘は不思議と驚かなかった。
その右手をそっと握り、そのまま何も言わずに一晩を過ごしてくれた。
翌朝目覚めて目の前にある清廉な寝顔を見つめ、生涯この娘を大事にすることを胸に誓った。
しばらくして目を覚ました娘に、優しく告げていた。
「生涯ともにあってもよいですか?」
娘は穏やかな笑みを浮かべ、ゆっくりと、しかし何度もうなずいた。

その日から、法師はこれまでにまして一層修行に励んだ。
妻のため、これから生まれてくるわが子のため。
わが子に呪いが継承されなければいい、と心のどこかで祈りながら。
翌年の蒸し暑い夜。
美しい男の子が生まれた。
真っ先に確認したその右手には己と同じく、忌々しい風穴が空いていた。

絶望―

一瞬頭をそんな言葉がよぎった。
しかし、泣きじゃくるわが子を愛しそうに、本当に心底愛しそうにあやす妻を見て思い直した。
(終わらせなければならない。)
父となった法師は必死に奈落を探した。
しかし、旅に出ては、収穫もなく村に帰る日々が続いた。
愛する妻と、日々成長する息子に会うのを楽しみに、それを動力として法師は必死に生きた。
そんな時を過ごした数年の後、妻は第二子を身ごもった。
しかし、その子がこの世に生を受ける前に、母親は息を引き取ってしまったのであった―。




「そのおなかの子が、美鈴さんなの…?」
淡々と語られる過去の話に、神妙に耳を傾けていた珊瑚が苦しげな声を上げる。
美鈴は無言で頷いた。
「あの…お義母上は、どうして…?」
「奈落の邪気に耐えられなかったのです。」
「え…?」
奈落、という単語に驚いた珊瑚が声を上げる。 その隣にいた弥勒も顔を持ち上げ、犬夜叉の耳もピクリと動く。
「一度ならまだしも、二度も体内に奈落の呪いを負った子を宿したのですもの。普通の人間は、耐えられません。」
「そんな…」
「だから…だから、生き延びた貴方が憎かった…」
「それで兄貴に復讐か?またなんで今更…」
犬夜叉が鉄砕牙を構え直し、険しい口調で問う。
「生まれることすらできなかった私の魂は母の魂とともに眠っていました。しかし、目が覚めたの。迎えが来たんです。ともにしかるべきところへ行こう、と―父上の。」
珊瑚が息を呑む。
「それは、奈落を倒したから…?魂が解放されたってこと?」
「そう。呪いが解けて、父上の魂は、無の世界から帰ってきたの。…でも私は拒否したわ。あの人のせいで私や母上はこんな目にあったんですもの。」
美鈴は、小さく息をつくと、決然として顔を上げた。
「でも、もういいの。もう行きます。」
「…美鈴。」
ゆっくり立ち上がり、その場を立ち去ろうとした妹の後姿に、法師が徐に声をかけた。
そして同じくゆっくりと立ち上がる。
途中ふらついた彼の体を珊瑚が支えた。
「今まで、辛い思いを抱えてきたのだろう?…生きていた私も…風穴と向き合うのは辛かったのだから。理不尽に生すら受けられなかったお前はその何倍も苦しんだことだろう」
初めて聞く夫の本音に珊瑚の肩がぴくっと揺れた。
「しかし、我々は忌まわしい呪いから解放された。ここにいる、珊瑚や…犬夜叉とともに闘い、勝利した。私は今生で幸せになる。だから、お前は…美鈴と、親父とおふくろは、必ず、来世で幸せになりなさい。いえ、幸せになれますよ。」
そう言い妻に微笑みかけると、一歩前へ出て、目の前で震える小さな背中を抱きしめた。
押し出されるように、初めて、美鈴の瞳から涙がこぼれた。
一度こぼれた涙は後から後から出てきて止まることを知らない。
美鈴は振り返ると兄の胸にすがりついて泣いた。
すっかり泣き止んだころには弥勒の胸にすがりつく娘は、七宝ほどの背丈しかない幼子に変わっていた。
「あにうえ…」
「はい。」
「ありがとう」
「…いいえ。こちらこそ、ありがとう」
背丈に合わせてしゃがんでいた弥勒が、優しく頭をなでてやると嬉しそうに笑い走り去っていった。
「あ…」
その先にはいつの間にか、男女の影が立っていた。
駆けてきた美鈴を男が抱き上げ、女が唖然としている珊瑚に会釈をした。
―弥勒を、よろしくお願いします。
そんな声が聞こえた気がした。
そして青緑の光に包まれ三人の影は星空へ消えた。




「まさか、これがおふくろの遺品だったとは。」
騒ぎの起こった翌日、夢心の寺を訪れた二人は、物置から弥勒が取り出してきた化粧箱を見つめていた。
その中には、頭巾や数珠、お守りなどが入っていた。
そのお守りに、ある寺の名前が記されている。
「幼い時から、これの存在は知っていたが深く考えたことはなかったからな。」
「これが、お義母上のいたところ?」
「恐らく、そうだろうと思う。」
「どうしてお義母上が尼さんだと?」
「あの娘は…美鈴は生まれてもいないのだから、大人になった姿で現れるなんて不自然だったんだ。」
「だからあれはお義母上の姿だってこと?」
「ああ。父か母しか知らないような内容を話していたし、出会い頭から会ったことのあるような口ぶりだったしな。それに…」
「ん?」
「幼かったなりに、何となく記憶に残っているおふくろの顔はあんなだったような気がする。」
と、懐かしげに呟いた法師の横顔を見つめ、珊瑚は嬉しそうに頷いた。
しかし、すぐ表情を改める。
「…でも、じゃあお義母上が、あんな風に法師様を恨んでたってこと…?」
「私の憶測だが…生まれることすらできなかった妹には、恨みしかなかったんだと思う。その恨みの気持ちが、おふくろの魂を動かし、おふくろの姿をさせたのではないかと思いますよ。そして、最終的におふくろの魂で押さえられなくなり、妹の恨みが表面に出たのではないかと」
「…え、てことはあたしと…その、馴れ初め…とか、話していたのは…?」
「ああ、おふくろでしょうな」
かーっと珊瑚の頬が熱くなる。
「あ、あ、あたしお義母さんになんてことを…」
「まあ、楽しそうでしたしいいのではないですか?」
弥勒はひどく狼狽している妻の背に手を添え、先を促した。


「こちらでございます。」
二人ははその足で、お守りに記されていた尼寺を訪れた。
尼寺の裏庭の、とある墓石の前に案内される。
そこにはほかにも、身元不明の仏様が何体か供養されていた。
二人は丁寧に墓土を掘り返し、お骨を回収する。

「あの時の坊やが…立派になりましたね」
お礼を告げに本堂へ向かうと、和尚が対応してくれた。
和尚は、弥勒の母がこの尼寺に身を寄せたときのことを覚えていた。
法師―弥勒の父は、日々体調を崩す妻を心配し、仏のご加護にすがろうと懇意にしていた寺の知り合いの尼寺に預けたのだ。
間もなく息を引き取った娘のそばに、その夫と小さな男の子がいたのを、和尚は覚えていたのである。
「お母さんは、己の死期を悟っていたのでしょうね。せめて腹の中のわが子を天に導けるよう、毎日仏に祈っていました。」
「…そうですか」
「そういえば…仏に祈るときにいつも鳴らしていた『お鈴(りん)』の音色をたいそう気に入っていたのが印象に残っています。その音を聞くと心が癒される、と。…そうだ。持っていきなさるといい。」
和尚は優しげに微笑み、下女を呼んだ。


「これで、家族一緒だね。」
「ああ。」
再び夢心の寺に戻った二人は、大穴の底にある墓石の前に、先ほど回収してきたお骨と、譲り受けたお鈴を埋めていた。
「…このお鈴に、願いをこめてたのかな」
「ん?」
「夫と息子が解放されますように…お腹の子が元気に生まれますようにって。「美鈴」っていう名前にはそんな思いがこもっているのかもしれないね」
「…ああ、そうかもしれんな」
そういうと、弥勒は手元のそれを見つめ目を細めた。
すべてを埋め終わると、丁寧に丁寧に弥勒がお経をあげた。

「…法師様、大丈夫?」
ほとんどのことには動じない弥勒だが、さすがに今回のことは堪えたらしい。
口数がいつもと比べて格段に少ない。
「ああ。ただ…」
と言いかけてちら、と隣にたたずむ娘に目を向ける。
「奈落の呪いは想像以上に恐ろしかったのだなあ、と」
「ああ…そうだね」
珊瑚は気遣わしげに夫の腕に手を添える。
が、に、と夫が笑う。
「いやあ。本当によかった。今ならお前とまったく気兼ねなく子がこさえられますからな。」
「は?」
「ささ、何も心配することはなくなりました!さっそくがんばりましょう!」
「は〜?」
と、遠慮なく弥勒が珊瑚を押し倒した。
「ちょっと!何やってんの親の墓前で!」
真っ赤な顔をして珊瑚が抵抗する。
「どうせみんな空の上ですよ…皆、行けたんです。」
「…」
珊瑚ははっとした。
ふざけているように見えた夫の顔は視界に入らないが、ぎゅーっと己に抱きつく肩が震えていることに気づいたのだ。
「法師様…?」
「皆、乗れたんです。輪廻転生の輪に。何もなくなったと思っていた親父の魂も、同じく呪いにとり殺されたおふくろの魂も、生まれることすらなかった妹の魂も。みな、みんな、救われたんだ…」
「…」
珊瑚は夫の背中を強く抱き返した。
「そうだね。だから、だからもう…法師様は幸せになっていいんだよ」
法師が息を呑んだのが直に伝わってくる。
「一緒に幸せになろう。」
そっと手を滑らせ、珊瑚は法師の顔を上に向けさせた。
問うように見つめる夫の唇に己の唇を寄せようとする。
はっとした弥勒が、目を閉じたその時―
「弥勒〜飯はまだか〜」
と、いいところで邪魔が入るのである。

「あの、生臭坊主…」
弥勒は突き飛ばされ、墓石に頭をぶつけた格好のまま青筋を立てている。
「今行きます!」
赤くなった頬を誤魔化すようにぶんぶんと顔を大きく振る珊瑚が軽やかに傾斜を登っていく。
そんな後姿を眺め、頭をさすりながら身を起こす。
珊瑚のあとに続こうと歩き出すと、柔らかな風が吹いた。
風に誘われるように振り向くと静かに立たずむ墓石の前に、仲睦まじい親子三人の姿が見えた気がした。
「珊瑚ー、待ってくださーい!」
弥勒は一度大きくうなずくと、愛しい妻の背中をめがけて駆けて行った。






(前篇)


あとがき
思ったより壮大なストーリーになった…
法師に妹がいたら、妹と妻とどっちをとるのか?!
という雑な設定のみでスタートしたのに、完全に過去をねつ造してしまいました。
毎度のことながらすみません、、、

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