-参-



「あれは、二十年以上も前のことでございます。私はまだ、現役で遊女をやっておりました。」
先ほどの郭に戻り、千景が話し出した頃には夜もかなり深くなっていた。
珊瑚は元の小袖に着替え化粧も落とし、奥の間で休んでいる。
七宝と雲母はその隣で一緒に休んでいた。
弥勒と犬夜叉とかごめの三人のみで女主人の話に耳を傾ける。
鬼男も人の姿へと戻り、大人しく座り込んでいた。


来る日も来る日も男に買われ、感情も何もない、そんな日々を送っていた。
しかし、あるとき、本気の恋に落ちたのだ、と低く呟いた。
毎夜毎夜その人が訪れるのを楽しみにしていた。
やがて千景はその男の前にしか姿を現さなくなった。
他の男の腕に抱かれることを厭い、目に入れることすら拒み始めたのだと言う。
それは、彼が連れ出してくれると言ったから。
彼はそれほど裕福ではない。
人気の彼女を正当に身請けできるほどの金は持ってはいなかった。
故に、さらっていく―駆け落ちしてくれるのだと、そう思っていた。
だが、女の夢は叶わなかった。
男は侍だった。
戦に行くことになったのだ。
必ず迎えに来ると約束し、燃え上がるような紅い着物を手渡すと、そのまま去ってしまった。
女は来る日も来る日も男が戦から帰ってくるのを待ち続けた。
しかし、何年経っても男が現れることはなかった。
そうしてある日女は真実を知る。
あの時、近辺で戦などなかったのだ。
男が消えて、再びとるようになった客から聞いた話である。
また別の客からはあの男には当時から妻子があったのだと聞かされた。


「私は失意し、それをきっかけに引退しました。」
かごめは切なそうに千景を見つめる。
「ちょっと待て、今の話と今回の事件と何の関係があるんだ」
苛立つ犬夜叉を弥勒が押しとどめる。
「落ち着け犬夜叉。もちろんその先があるのでしょう?」
「ええ。それから今のように裏でこの町を支えるようになって十数年、この人が現れたのは…ひと月ほど前のことでしょうか」
そっと千景は隣に座る鬼男に目を向けた。
「夜の街を歩いていると、この人がいたんです。すぐ彼だと分かりました。」
大方予想はついていたものの、いざそうだと聞かされると一行は驚き息をのんだ。
「『やっと会いに来てくれた…?』一瞬そう思いました。でも、そうじゃなかった。彼は何もかも忘れていた。貴殿方も御覧になったように…この人はただのモノノケと化していたのです。」
「正体を承知していて何故、その…ともに暮らしているのですか?」
「先ほども申し上げましたでしょう?私はこの人を、飼っているのです」
忌々しげに告げるその様子に一行が顔を見合わせる。
「このような場所でも男手は必要ですから。幸い私の言うことは理解しよく聞きましたので、使役していたのです。」
「失礼ですが…事件に全く気付かなかったとおっしゃっていましたが、監視などは?」
「生活は他の使用人と同じようにさせていました。常に監視していたわけではありませんので、このような事態を…。」
「では、普段は人として暮らしていた、と」
「はい…ただ、重いものを運ばせるなどというときは、人目を忍んで鬼に姿を変えさせていました。」
はぁ…と、呆れたような困ったような、複雑なため息が部屋中に響く。

「ねぇ…さっきから思ってたんだけど。」
ふとかごめが声を上げた。
「何ですか、かごめ様」
「犬夜叉あんた何か落ち着きなくない?」
「あ?」
「いらいらしてるっていうか…そわそわしてる?」
「!」
「あー!何か隠してるでしょ!」
かごめに激しく詰め寄られ犬夜叉は慌てた。
「べ、別に何も隠してねぇ!ただ、なんかこの甘ったるい匂いが気持ち悪いんだよ!」
「何を言う。この郭独特の甘い匂いがそそるんでしょうに」
「てめっ何をっ」

ぱさっ

隣室から小さな音がした。
「うっ」
犬夜叉は鼻を抑えて黙り込む。
「ん?どうしたの?」
その顔を覗き込むとうっすら赤らんでいた。
「くっそ、珊瑚の野郎…」
「え?珊瑚ちゃん?」
犬夜叉はそう言いながら立ち上がり、ずかずかと歩くと続きの間の襖を開ける。
「珊瑚!起き上がって大丈夫なのですか?…ん?それは…?」
弥勒が犬夜叉の背後から部屋の中を覗くと、身を起こし何かを拾い集めている珊瑚の姿があった。
七宝や雲母も目をさまし、こぼしたものを拾う珊瑚の姿をうっとりとしたような表情で見つめている。
「ごめん、こぼしちゃっ…」
しかし珊瑚が言いきる前、一行の前を風のように何かが通った。
「利三!」
千景の悲痛な叫び声が響いた。
どうやら利三というのが鬼男の名らしかった。
「きゃあ!」
利三は鬼の姿へ変化しかけている。
その彼に押し倒され、珊瑚が悲鳴を上げた。
「珊瑚!」
「珊瑚ちゃん!」
「てっめぇ!」
「やっと会えた…こきあけ…」
「え…?」
珊瑚を救出しようと身構える仲間達の前に千景がふらっと歩み出た。
「千景さん…?」
しかし千景は何も言わず、ただ成り行きを見守っている。
鬼男は優しく珊瑚を抱きしめるとそっと囁く。
「さあ、行こう。もう私たちは自由だ…」

通常の珊瑚なら、このようなことをされて黙っているはずがない。
しかし、今の彼女は男の腕の中ピクリともしない。
鬼の怪力のため動けない…?
「珊瑚ちゃん魂が抜かれてる!」
かごめの声に弥勒ははっとなる。
「お前…死霊か!」
言うや否や数珠を取り出し、念を込める弥勒に気づき、鬼男は咆哮を上げると轟音とともに珊瑚を抱いたまま姿をかき消した。
「珊瑚!」

「おいばばあ!あいつ鬼じゃなかったのかよ!?」
「…」
「てめぇ!あいつはどこへ行った!?」
犬夜叉は複雑な顔で無言を貫き通す千景の胸ぐらをつかんだ。
「やめんか!」
「犬夜叉!」
慌てて一行が止めに入ろうとするが、犬夜叉の動きはすでに止まっていた。

「おい、お前…妖怪か?」

「ええ!?」
「どういうことです?女将さまから妖気などはまったく…」
「ああ…妖気は薄いが、近づいて初めて気付いた。わずかだがあの匂いがする…」
「あの匂い?」
「ああ、珊瑚が持ったいやがったあの薬の…」
「!あの男寄せの薬!」
かごめの一言に眉が跳ね上がる弥勒。
「ああ!あれか!良い匂いじゃったのう」
「…何です?その胡散臭い薬は」
「弥勒、何を怒っとるんじゃ?」
「怒っていません。それよりその薬とは…」
「そんなことより早く珊瑚ちゃんを助けなきゃ!」
「だーっ!こうしちゃいられねぇ!とにかく珊瑚を手分けして探すぞ!」
「お前たち!ちょっと…」
弥勒の疑問へは誰も答えることなく皆は散り散りとなった。


男が死霊で千景が妖怪…?
ますます理解しがたいが、珊瑚が危険なことは間違いない。
弥勒は歩を進めながらも、一刻も早く珊瑚たちの居場所を突き止めようと考え込んでいた。
何せ相手は死霊だ。闇雲に探しても見つけられる場所にいるとは限らない。
あの利三という鬼が…侍が行きそうな場所は…

被害にあった他の女たちとは違い、珊瑚は魂を抜かれた。
さらに、先ほどの珊瑚は赤い着物を纏っていなかった。
何故それほどまでに珊瑚に執着するのだろうか?
一度取り逃がしたから?
珊瑚が相当に美しいから…?
自分で立てた仮説に一瞬眉をひそめるも再び思考を巡らせる。
そういえば、攫われる直前珊瑚は何かを拾っていた…というよりかき集めていた。
粉のような、あれは…
「…薬か、先ほど犬夜叉たちが言っていた…」
あれが強力に利三を惹きつけたのだろうか。
(そう言えば、珊瑚のことを『こきあけ』と呼んだか…)
変わった名だ。
ふと蘇る先ほどの情景。
「…!」
はっとした弥勒は来た道を引き返した。



「やっと、迎えに来られた…」
男の声は掠れている。
珊瑚は、古びた郭の一室に連れ込まれていた。
(違う!あたしはあなたが求めてる人じゃない!)
珊瑚は心の中で必死に叫んでいた。
体は動かなかったが、意識はかろうじてつなぎとめていたのである。

突如ふっと拘束されていた力が緩んだ。
同時に、周囲はざあーっと豪奢な部屋へと姿を変えた。
男の姿は若々しく勇ましい侍となっている。
「こ、これは…」
珊瑚は声を取り戻し、見れば先ほどの赤い着物をまとった遊女姿に変わっている。
「どういうこと…」
濃緋(こきあけ)
そう呼び抱き寄せて来る男の声や表情は驚くほど優しく温かい。
しかしその腕や胸に温かみはなくひんやりとしている。
「…」
(そういえば、法師さまが死霊だって言っていたっけ…)
「濃緋…何故そのように哀しい顔をする?」
「こきあけ…さん?それがあんたの大切な人の名前?」
「…?」
(この人魂だけだ。じゃああたしも魂が抜けてるのか?体はどこだ?)
黄泉の国へ道連れにされないよう、珊瑚は意識を集中する。
「こきあけさんってどんな人なの?」
「…何を言っている、お前のことだろう」
「違うと言っている。私は珊瑚」
「珊瑚…?しかし、その美貌に麗しき香り、直接頭に入り込むような愛情深さを持つおなごが他にいるとは…」
珊瑚ははっとした。

この世のものとは思われぬ美貌に酔うその様子、
脳に直接作用する麻薬のような香り。

(例の秘薬だ!)
この薬は退治屋の里のみに伝わる極秘薬だ。
利三の探し求めるおなごがこの秘薬を持っていたとは考えにくい。
となると、もしや女は薬の元である妖怪…?
その女を探し出し道連れにするつもりなのだろうか。
こうして、魂を抜いて?
しかし、利三が襲っていたのは人間の娘ばかりだった。
「おまえ…何故遊女を殺して回っている?」
「…殺したのは俺じゃない」
「じゃあ誰が?」
「…」
「もしかして…千景さん?」
利三は珊瑚から腕をほどくと項垂れた。
「娘たちには申し訳ないことをした…濃緋はその名の如く紅い着物のよく映える女だった…濃緋に似た、赤い着物をまとった女を見つけると、気づけば襲ってしまっていた。だが断じて、殺す気などなかった。いつも、後で娘たちの始末をする千景を見ているしかなかった」
「千景さんはどうして、娘たちを殺していた?」
「分からない…」
「どうして止めなかったの?」
「分からない」
「分からない分からないってあんたねぇ!」
珊瑚は苛立たしげに声を荒げる。
「あんたからしたらどうでもいいのかもしれないけど、人が死んでいるんだ!」
「俺も人だ…死の痛みはよく分かっている」
(そうだ、死んでいるんだこの男は…)
男はぽつりぽつりと語りだした。
珊瑚は軽く目を瞠る。
どうやら、姿を取り戻し徐々に記憶もよみがえったようだ。


近頃利三が女に溺れている、と侍仲間内で噂になっていた。
しかも、相手はそうそうお目にかかれない絶世の美女だと言う。
女を売る商売に身を置く相手に、所詮下級侍にすぎない利三がどうやって取り入ったのか、そんなことが専ら騒がれていた。
昼は真面目に、剣術を磨き夜な夜な女に会いに行く。
そうしてその日も利三が女―濃緋と密会を果たした帰路でのことだった。
突如現れた武士とそれを取り巻く数名。
質素な身なりをしていたが、たたずまいや所持品などの様子からかなり高い身分の武士であることは想像に難くなかった。
曰く、濃緋を諦めろと。
利三は食い下がった。斬りかかる取り巻きたちを地に伏せ、男を睨みつけた。
しかし、男は顔色一つ変えずこう言った。
「諦めなければ、郭を燃やす。濃緋ごとな。」
それを放った男の冷徹な目に、こやつなら本気でやりかねない、と本能的に感じた。
利三は最後に別れを告げさせてくれるのなら、という条件をつけ、男の要求を飲んだ。


「それで…濃緋さんを諦めたの…?」
「そのようなこと出来る訳ないだろう。危険な男の元に濃緋一人放り出すような真似…」
「じゃあ?」
「もちろん、ほとぼりが冷めてから隙を狙って濃緋を救出しに行くつもりだった。だが、最後の逢瀬の後呆気なく私は例の侍に殺された。」
「そう…だったの…」
利三は悔しそうに歯噛みをする。
「それから、未練を残した私は死霊として彷徨い続けた。ただ、濃緋だけを求めて…あの侍への憎悪の念からいつしか姿は鬼と化していた。そんなとき千景と出会った。彼女は唯一鬼の姿をした私を恐れなかったおなごだ。」




(-弐-) (-肆-)





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